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久万町誌

4 新道開さく工事の進行

 臨時県会の議決した「自明治一八年度、至同二二年地方税土木費中、道路新開費予算」は「五ヵ年継続道路新開之工費県令決議ノ議ニ付伺」として一一月二八日、関県令から山県内務大臣に提出された。
 翌一九年二月一九日「書面伺之趣認可候事」の指令がとどいた。そこで関県令は三月六日愛媛県達甲第三八号で「四国新道」開さく工事の内容を県民に公表した。一方、県令は同工事の具体案作成を係官に命令した。
 これによると、愛媛県分の新道は、旧街道の里程二七里三〇町余(内伊予分一七里一八町)を一四里二七町(内伊予分一五里)に短縮することにし、道幅は平地で四間、山間部で三間から三間半とし、勾配は三坂峠二七分の一(この結果麓より峠に至る路線は旧街道二里半の急坂か四里の緩やかな坂になる。)工事費は二五万六八〇〇円(伊予分一七万八〇〇〇円)の予算を一里につき平地で七〇〇〇円~八〇〇〇円、山間部で九〇〇〇円~一万円とし、橋梁では住信橋九〇〇〇円、久万川橋梁四ヵ所一万四○〇〇円と内約された。
 工事区間は六区に分けられ、一九年五、六月に着工の予定で始められた。
    (第一表)工事区域表
  第一区 讃岐国那珂郡丸亀港多度津港那珂郡十郷村字坪の内
                 里程凡五里三〇町(約二三㌔㍍)
  第二区 右坪ノ内~三野郡財田上の村猪畠阿讃国境
                  凡四里二四町(一八・五㌔㍍)
  第三区 伊予国温泉郡松山~下浮穴郡久谷村大久保
                     凡四里(一五・七㌔㍍)
  第四区 右大久保より上浮穴郡東明神村
                     凡三里(一一・八㌔㍍)
  第五区 同東明神村より同郡中黒岩村
                     凡四里(一五・七㌔㍍)
  第六区 右中黒岩村より上浮穴郡久主村土予国境
                     凡四里(一五・七㌔㍍)
 こうして準備もととのい明治一九年四月七日、讃岐国琴平宮内において愛媛・高知・徳島の三県令をはじめ五〇〇〇余名参列して盛大に起工式を行った。五月中旬下浮穴郡宮内村道路を皮切りに各工事区で始められた。この年は暴風雨に三回も見まわれ、関知事(明治一九年七月一二日勅令五〇号により知事と改称)は県会に追加予算を提出したが承認されず、国庫補助申請運動に一〇月一五日出発一ヵ月近くもかかって遂に四万五七〇〇円の国庫補助を得て一一月一二日帰県した。新道開さくの事業の心労の上、降ってわいた天災救済融資陳情に東京出張一ヵ月に因する心労、更に一九年に大流行のコレラのために最愛の妹を失うという痛苦が重なって遂に病魔に犯され二〇年三月七日帰らぬ客となった。
 命をかけた四国新道の竣工を見ずして世を去ることは関新平にとってまことに心残りであったろう。四国開発の大恩人、土佐街道関係都市並びに沿線の人々は忘れてはならぬ人である。
 関新平知事の死去後も工事は続行され二〇年九月、一応、三坂峠開さくは完成をみた。
 新道開さくかぞえ歌は、桧垣伸上浮穴郡長作詩で、当時の工事の目的や状況をよくあらわしている。
  一つとセ 人の知りたる伊予土佐の
     通路は山また山ばかり ソレ開さくセ
  二つとセ ふだんの運輸も戦時にも
     通行便利が第一よ ソレ国のため
  三つとセ 道は馬車道四間巾
     一間三寸勾配に ヨク測量セ
  四つとセ よもやたのみじゃ出来はせぬ
     前代未聞大事業 ミナ熱心セ
  五つとセ 岩も堀割れ山もぬけ
     往来に不自由のないように ソレ破裂薬
  六つとセ むつかしゅても三年の
     月日のうちには仕上げたい ソレ開さくを
  七つとセ 難所の工事は久万三坂
     黒岩黒川大身槍 ソレ突き通セー
  八つとセ 約束極めし村々の
     出し夫は一戸に一〇〇人余 ミナ負担せよ
  九つとセ 工事の積りは三〇万
     官金ばかりを当にせず ミナ負担せよ
  十とセ 通り初めには賑やかに
     開通式をばしてみたい
 明治二一年一二月五日~一一日までの会期で開かれた県会では「新道開さく道幅変更の件」がとりあげられ、新路中山岳渓の断崖絶壁の四間幅は困難であり、これを決行するとせば総工費五○万円を超えることになる。そこで山手の道路幅は二間以上に手直しをすることに決し、白根知事を通じて内務大臣に伺いをたてて認可された。
 二二年二月八日~一九日の会期には明治二一年一二月三日勅令第七九号により讃岐国が独立して香川県が誕生した。
 これに伴う新道聞さく事業並びに工事費分割区分等の訂正があって、更に伊予に属する土佐街道の予算が改めて提出されて審議した結果、議会は原案を承認し二二年度竣工をめざして急速施行することを確認した。白根知事二二年二月二一日「道路開さく継続の議につき伺」をたてた。同三月四日に「道路開さくを継続せよ」の内務大臣指令が届いた。
 同、三月二六日、白根専一が愛知県知事に転任、後任に勝間田稔が任命された。知事着任直後新道開さく状況を検討したところ竣工を前に次の三点で予想外の困難に直面していることがわかった。
  一、三坂峠~久万野尻の路線補修の件
    この地区は土層軟弱のため崩壌多くまた路面沼化している。全面的補修、山止めも所々に施さねばならぬ。
  二、重信川の橋梁架設の件
    物価騰貴により予算の不足、永久橋のためには橋脚の構造をかえる必要あり、予算を増す必要がある。
  三、松山市街路線改修の件
    河原町・小唐人町・二番町と三番町の中間を通ることになっているため、家屋の移転と敷地買収の難行に伴い予算増額の必要がある。
 勝間田知事は年限一ヵ年延長と政府補助の増額を請うたところ一万九〇〇○円の補助を二三年度分として下付された。この金額を予算に加え、一一万三一四九円一八銭四厘の更正予算を上程したが、県会では重信橋二万一〇〇〇円と松山市街改修費三万一〇七八円五一銭二厘と器械四○○円を削減し、あらたに特別改修費一万二八〇一円四厘を加え他は原案どおりとする。七万一八三一円六七銭六厘の修正案を知事に送った。知事は受入れ四月一一日山県内務大臣に裁決を求めたところ、四月二一日認可された。ところがこの年九月、久万川は大洪水になり、予土国境の落出橋が決壊した。そのため完工は時間的にも、予算的にも不可能なので、渡船でつなぐことにした、認可はあったが、渡船に要する費用は地方税により通行人からはとられぬとの通牒が届いた。この時諸般の事情より考えて一応二三年で打切りを決意し、係官に『高知県分の新道開さくは八ヵ年継続事業のようだが、六ヵ年目を迎えた今日、全体の半分も完成していない。高知県側工事の完成との関係もあるゆえ目下は崩壊の場所のみの整理にとどめる』と決議した。知事大いに喜び、一一月一九日内務大臣に申請した。この知事の開さく事業中止案に議会が同調した。
 この中止案に同調した背景には四国新道を含め、県下主要幹線道路の改修事業に要する負担にたえかねていたことと、県内各地に反対運動があり、当時道路費は一〇〇万円に近く可否両論の陳情があり、県庁の廊下も騒然たるの記録があり、当時県政の中心問題が新四国新道にあって県財政県民の負担に関わり大変騒然としていたことを忘れてはならぬ。
 明治二五年二月一日勝間田知事の事業中止申請に対し、内務大臣品川弥二郎の指令がとどいた。中止と共に捕助金三〇〇〇余円の返納命令が出た。知事は困難し中止を変更して継続年度延長する以外にないと急遽武内書記官を上京させて事業再開を運動し、その努力は功を奏し三月七日付で「事業継続聞置」の指令が知事に届いた。時期切迫のゆえ議会招集の暇がないので常置委員会を招集した。この問題を提出した所(小林伸近外六名)七名の同意を得た。内務省にその向き延期方申請、三月二一日認可、当時県政は党状、勢力の分派により激しく抗争があったが超党派で知事案を承認した。明治二五年八月渡船場の完成を期し、四国新道愛媛県分担分は一応竣工し、勝間田稔知事、桧垣伸上浮穴郡長等関係者多数が出席して三坂峠で盛大な完工式が行われた。知事を始め列席者のすべてがこれまでの労苦をふりかえって感慨にひたり、この日を迎えずに去った関新平知事を偲んだことであろう。
 この土佐街道完成にいたる間に特に記しておかねばならぬことどもをあげてみると、

19年度開さく事業一覧表

19年度開さく事業一覧表