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久万町誌

2 日露戦争

 日清戦争は勝利に終わったが国も国民感情も勝利に酔うことは許されなかった。
 それは下関での講和条約調印に対して、ロシア・ドイツ・フランスの三国が遼東半島還付を勧告した三国干渉によるものであり、当時これに対する国民の憤りとして新聞に「臥薪嘗胆」ということばが報じられ時代的流行語となった。
 この臥薪嘗胆が示すように三国干渉に対して、だんだん日本はロシアを憎むようになり、やがて日露戦争にと発展していった。
 郷土に特に関係する松山二二連隊は、明治三七年四月一九日、四国の一一師団に動員が下ると同時に召集され、久万地方のほとんどが入隊しその初陣として旅団長陸軍少将山中信義の統率により高浜港から出征した。そして同月二四日から二七日遼東半島に上陸し、三〇日半島両断作戦に参加し、その後第三軍に編入、乃木大将指揮のもとに旅順攻撃に加わる。松山連隊の目標は東鷄冠山で、難攻不落と称され旅順要塞戦の中で、最も困難をきわめたところである。八月二二日第一回総攻撃より一二月一七日最後の突撃で北砲台に連隊旗がひるがえるまで死闘は続けられた。その後松山連隊は鴨緑江軍に転属、清河城の戦闘、撫順の占領、奉天附近の戦闘と日露戦争では重要な役目を果たしたのである。
 こうした日露戦争も相次ぐ勝利の内に九月五日米国ポーツマスで講和条約が結ばれ、この戦争も終結した。この戦争における久万町からの出征者は二二〇余名、戦没者は二二名であったが、日清戦争同様、詳細な記録は焼却されており実数を知ることはできない。
 松山二二連隊は三九年一月三日ごろ奉天を出発し一〇日ごろ高浜港に凱旋した。
 イ 戦争と銃後の生活
 当時明治三七年二月一〇日、開戦に当たっての校長訓話は「ロシアが寒い国であり、暖かい所へ軍港をつくり支那・朝鮮・日本を占領して勢力を伸ばそうとしているので、これを防ぐために戦争するのである。
 しかし、ロシアは世界最強の陸軍(コサック騎兵)を日本の五倍も有し、又海軍も世界最強のバルチック艦隊をもっているので国民が総力を合わさなければ勝つ事はできない」この訓話のように、この戦争は世界最強といわれたロシアが相手であったため、銃後においてもすべてが戦争の遂行に結集された。
 各村からの出征者は村人や学童に見送りを受けて出征した。出征前夜の送別会は親類縁者や地域民で行ったが、食膳は畑物だけですまし、魚類は使わなかった。見送りで、住民や、学童は地区界まで。親戚、友人等は峠まで、肉親は松山の連隊まで送った。
 開戦と同時に銃後では戦勝祈願が行われた。各小組ごとに二名ずつ(戸口まわし)が定められた神仏をまわり祈願した。
 「武運長久」の旗と「日の丸」を手にし、弁当を腰にしてほとんどが一日行程で終戦まで続けられた。川瀬地区は地域の氏神―岩屋寺―三島神社(菅生)―伊勢神宮(久万)とまわり、明神地区は氏神―金刀比羅―高殿―天満宮―伊勢神宮―大宝寺―法然寺、父二峰地区は氏神―大宝寺―伊勢神宮―三島神社等のコースをとっていた。
 こうした日参にも色々なエピソードがあったようである。明神ではある小組の者が日の丸の旗を腰に差して日参していたことが他の住民の目にとまり苦情が出て、相当にもめたという。当時としては大問題であったなどはその最たるものであろう。いずれにしても戦いに勝つ事を念じての日参は、一つの不平不満もなく行われたようであるから、国民のこの戦いに関する決意がうかがえる。日清戦争では徴発物資はなかったがこの戦争では最初に馬、次いで梅干、竹(橋に使用)などの物資が徴発された。一方、町村費等も大幅に節減され、学校でも勤倹貯蓄運動を推進し、戦争のための貯金を行ったり、住民の手で日露戦争記念植樹なども行われた。
 これらをみても、政府の決意や国民の緊張の度合いをはかり知ることができる。
 二二〇名余りの出征者があったとはいえ、銃後の生活は安定しており、近隣の手伝いによって農作業は順調に進行された。
 戦勝のニュースが新聞で村民に伝わり、そのたびに「ちょうちん」行列や旗行列が盛大に行われた。夕方から「ちょうちん」に火をともした村人たちが各戸より集まり、変装した者も参加して氏神様から町内を通りあちこちで万歳万歳を繰り返しながら夜遅くまでにぎわった。
 また五月二七日の日本海海戦ではこんな話も伝えられている。二七日朝号外で日本艦隊とバルチック艦隊の海戦が報じられた。松山市民は仕事もしないで石手川土手に集まり日本海の方を見ていると昼過ぎごろから雷のような音が聞こえ、これは日本海での大砲の音であろうと夕方までこの音を聞く人で一ぱいであったという。
 更に久万町と日露戦争の特色として忘れてならないものとして「兵隊さんと民宿」がある。高知四連隊も高浜から出征したため、国道三三号線はその街道となった。高知を発った兵隊は久万で一泊することになっていたので久万・明神の街道近辺はこの兵隊の宿舎に当てられた。民宿には手当(宿賃)が支給されていたが、その数倍くらいの費用をかけて歓待した。各兵隊には家族が一緒に高浜までの見送りに来ていたので相当多くの数が宿泊した。民家では一人でも多く泊める事が誇りであったし、また心からのもてなしをした。こうして銃後も一丸となり戦争に協力し、戦場では勇敢に戦い勝ち進んだが、その陰には尊い犠牲者もでたのである。英霊は住民、学童等に迎えられて帰り、おごそかな葬儀が営まれた。それぞれの葬儀には郡長を始め町村長が出席し、松山連隊からの弔辞等もおくられた。二〇数名の英霊には町村をあげて弔意を捧げたのである。