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久万町誌

1 衣 服

 衣服は晴れ着、ふだん着、労働着に区分される。晴れ着は「ヨソイキ」、「イッチョウライ」などといい、儀式などに着る着物だが、自給自足の長かった時代には木綿が普通であった。各家庭には足踏みの織機が備え付けてあって、農家の婦人は一四、五歳から綿で糸を引き、それをかせにして紺屋で染色して、地機で織った手織木綿をだれも愛用した。
 この木綿が出現するまでは麻やコウゾ、フジなどの茎皮繊維をとり、それを細かくさいて糸につむぎ、機にかけて織っていた。着物にするにはたいへんな労力がかかり、ごわごわして肌ざわりも悪かった。その点、木綿は肌ざわりもやわらかく、あたたかで、しかも染めが容易であるため、一般に愛用されるようになった。
 久万町にも明治三九年ごろより紡績会社ができ、糸もいろいろなものができはじめた。なお織物会社が変わった反物を市販し始め衣類の様相も変わってきた。
 大正三年、第一次世界大戦が始まったころより、捺染衣類が出回り、値段が安いため流行した。
 京都の西陣織とか、秩父織・大島かすりなど、絹織物もこのころ盛んに販売され、松山市にも大呉服店が町ごとにできた。この戦争で日本にも好景気が訪れ、衣食住もぜいたくになって捺染のような安物で満足せず、高級な織物に人気が集まった。
 晴れ着は、正月・盆・祭礼などに当たって新調するのがならわしであった。新しい着物の着初めには、氏神様に参るとか、そで通しをするとかした。ふだん着は晴れ着の古くなったのをおろし、更に労働着に更生した。
 男子の労働者は上衣は筒そで、下は「モモヒキ」であった。冬の防寒用には綿入れの「デンチ」を着る。女子の労働着も木綿の着流しに、腰巻きをつけ、据からげに前垂れをした。たもとや平そでの場合は、たすきを掛けて、そでを引きあげ、手には手おい、あるいは腕抜きをあてた。モンペ・ズボン姿に変わったのは、太平洋戦争中からである。婦人の仕事姿のエプロンがけは、たすきと前垂れの兼用姿である。なお、男女とも洋服が普及したのも戦争中からであった。
 昭和一二、三年ごろまで和服の時代が続いたが、支那事変のぼっ発により軍の指導でに青年学校が軍服に似た制服を着用し始めた。これが順次労働着にもひろまり、一般にも活動的なため、普及していった。戦時中はこの服装にゲートル姿でないと非国民といわれた。昭和二○年八月の終戦とともに、一時は軍放出物資として軍服が出回ったけれども、衣類が豊富になるとともに、洋服が流行し始め今では洋服化したといえる。が、最近は若い女の人の和服がブームを呼び成人式(一月一五日)などに華やかすぎて問題とされるようにさえなった。
 農作業などのかぶり物には手ぬぐいが最もよく利用された。男子はほおかぶり、はちまき、女子はねえさんかぶりにする。また笠も用いられた。戦争中は、竹皮を集めて「タクロバチ」(タコロバチ)の作り方の講習も、各地で行われた。今は、きょうぎ帽や麦わら帽子になっている。雨天には、みの笠をつけたが、今はかっぱの着用が多く、上下式でカスリ模様でフード(帽子)つきのものもある。