データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

久万町誌

2 はきもの

 はきものについては、ぞうり(草履)を普段は用いた。遠出や農作業にはわらじ(草鞋)をはいた。また雪道には凍傷を防ぐため、わら長ぐつを作り使用した。
   げ た
 すべて自家製で、材料も、ヒノキ・スギ・松などに、わら・しゅろの鼻緒をすげてはいていた。明治二八年日清戦争後に鼻緒製造業者が現れ、布製の鼻緒が店頭に出始めた。それまで自家製造であったげたも、そのころから業者で作るようになった。
 明治三九年、日露戦争後急速にげた類に変革が起き、さしはまげた、向こう皮つき、ひよりげたなどが流行し始めた。大きな白鼻緒に大きなさしはまげたをはいて、大道を闊歩する青年の姿もみられるようになり、それが、昭和一〇年ごろまで大流行した。
   ぞうり
 雨のふらぬ日は、ぞうりであった。夜なべにわらをうって、各自で製造し、鼻緒の部分には古い布を引きさいて、巻きつけているのもあった。その後、麻裏ぞうり、せったといわれる高級品も出回った。
   わらじ
 わらじは、大昔から伝承され、大正の初めごろ地下足袋ができるまで、旅をするにも、山仕事をするにも、使用された。今でもときどき見かけるがおおかた姿を消した。
   た び
 もめんたびは、大昔よりあったらしい。明治三七年ごろまでは、ひもつきであったが、日露戦争が終わった後、現在のようなコハゼつきに改良された。普段は三つコハゼのたびを使用し、訪問着のときは四つコハゼのたびを着けるのが慣習になっていた。
   皮及びゴム製くつ
 皮製くつは、文明開化で外国との交易が始まってから日本にはいってきたものである。官公史が洋服になり、軍隊が増強され始めてから順次普及され現在のようになった。ゴムぐつは昭和初期より入り始めた。最初は全くのゴムだけで、くつ下でもはいていないかぎりくつずれをしていたが、その後、上は布製、底はゴムという現在のようなズックぐつが出るようになった。
   わらぐつ
 昔は、かなりの大雪があった。冬の間仕事ができないので猟に出かけるが、道幅も狭く、道も急な上にわらじでは雪やけ、凍傷にかかるため、考え出されたのが、わらで作った長ぐつである。しかし、かなりの技術を要するため、これが作れるものは組内でも、二、三人しかいなかった。
 また簡単なものに、ねじかけといって、わらじの先に指先をおおうものをわらで作ってつけたりしたが、これでも結構保温かできたという。
   雨 具
 農民や労働者は、雨具としてみのや笠を用いて雨の中で働いていた。しかし、ふだん外出のときは油紙で作った雨傘をさして、高げたをはいた。支那事変の始まったころより、油類の不足が目立ち、代用品を使うようになり、洋傘が見られるようになった。太平洋戦争後洋傘の利用者がふえ、雨傘の売れ行きが悪くなり、製造業者もぼつぼつ姿を消した。また、労働用雨具もビニール製の雨がっぱが普及し、みのや笠は全然見られなくなった。