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久万町誌

1 たべもの

 農家の食生活は質素そのものであった。主食は米麦半々が上食で、まずしい家では、米三、友七の割合か、四分六であった。また、トウキビの挽き割りに、米を入れたものも常食としていた。だいたい冬はトウキビ、夏は麦(丸麦)であり、それ以外にも、かゆ、雑炊などもたべた。米は非常に貴重なものであったから、やたらに米のめしはたべなかった。年に数えるほどしかない「紋日」だけに米のめしを食べた。この「紋日」には、餅・団子・すし・ごもくめしなどをよくつくった。このため、「紋日」をおとなも子供も楽しみに待っていた。
 大正七年に米価が暴騰し、各地で米騒動が起こった。
 その年の一一月に第一次世界大戦が休戦になると、次第に自米食が多くなり、ぜいたくになっていった。
 これは支那事変、太平洋戦争の初めごろまでは続いたが、軍の命令によって白米食が禁じられ、粉食、雑穀混入、野菜その他の代用食を摂るようになった。戦後も二年余りは配給制度による代用食をしいられ、また、外米の配給を受け、ネバリのないボソボソした米をよくたべ、白米食など思いもよらなかった。しかし、昭和二八年ごろからようやく米食が意のままになり始め、今日では雑穀混入をしている家庭は少ない。
 「もち」についても、農家の生活の知恵が出ているように思われる。
  正 月   お 年 玉(かさねもち)
  三 月   節   供(ひしもち)
  三 月   彼   岸(ぼたもち)
  五 月   節   供(かしわもち)
  九 月   彼   岸(お は ぎ)
 副食物は、「おかず」「おさい」といって、主として野菜である。魚や肉などは日常食うことはなかった。それでも、祭り、節季、正月には「無塩」と称する生ざかなをたべていた。
 牛肉はたべないものとしていた時代もあったが、年二、三回たべるのはよいほうであった。
 野菜は、ダイコン・カブ・タカナ・ゴボウ・ニンジン・ネギ・サトイモ・ウリ・カボチャ・ナスなどである。ワラビ・ゼンマイ・フキなど山に自然に生えるものをつみ取り、ゆでて乾して保存し、年中必要に応じて食べたもので、平野部では想像もできない山の幸であった。また、ウド・タラの芽も重宝がられる副食物であった。
 馬鈴しょが、当地に移入されたのは、明治三九年か四〇年ごろであった。それまでは支那いもという馬鈴しょの一種があったが、粒が小さく、野良生え程度のもので今の馬鈴しょとは比較にならないものであった。今日では馬鈴しょは副食物中の主要な位置を占めるほどに栽培され、各家庭の必需品に数えられている。
 このように野菜類が主であって、魚類は川魚を捕獲してたべることはあっても、海の魚は、干魚、塩づけ魚など年二、三回たべるのが普通家庭で、年中たべられない人の方が多かった。
 しかし、明治三九年、日露戦争後、我が国が世界の一等国に列したというので、にわかに活気づき、まず体格の向上、教育の振興が強く叫ばれるようになって、自然に魚や肉などが普及し、久万町にも鮮魚店ができた。三津の朝市で仕入れ、人夫の肩で運んで、昼前には、町内を売り歩くという盛況を示した。したがって、各家庭でも鮮魚がふだんの食膳に上るようになった。
 この購買力ができたのも、戦勝後、海外貿易の異常な進展をみて、木材、薪炭類の値上がり、道路網の拡大などによる収入増加が原因したのである。特に昭和九年ごろ、貨物自動車による鮮魚の運搬が始まって、いっそう鮮魚の量が増し、価格も安くなったので、ますます需要者はふえていった。
 昭和二〇年ごろの大戦終了前後は、極度の物資不足にたたられ、再び野菜万能におちいったが、数年にして景気も立ち直り、主食につれ副食物も豊富になった。昭和四〇年に入っては、鮮魚・カマボコ・鯨・豚肉・鶏肉や各種缶詰類が商店街の五割以上におよぶ商品として仕入れられ、それが売れ行き好調というのだから、実にぜいたくな副食物化というべきであろう。
 また、調味料としては、みそ・しょうゆを、農家・非農家を問わず、自家で製造したものだった。
 松山市内には、二、三のみそ、しょうゆ製造業者があった。久万にも、明治三六年ごろには、製造業者ができた。しかし、大部分の家庭が自家製造にたよっていた。昭和の初めごろからは、自家製造をやめる者も出て、いつしか商品を購入するようになった。
 その後、県内はもちろん、県外からの優秀な商品が店頭に並び販売されるようにまで発展したので、今では自家用しょうゆを製造する者はほとんどいなくなった。