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久万町誌

2 炊事道具

   茶釜及び羽釜
 これは、遠い昔からあったらしく、各地で富裕な家庭で使用されていた。(鉄を主としたもの)
   茶 罐
 主として銅製で、これも茶釜と同じく、上流の家庭にあった。(銅に金を混ぜたものもあった)
   鍋
 鉄の鋳物で、大小いろいろあったが、土焼きものもあり、明治四二、三年ころまでは、土釜を使用していた。
   茶 沸 し
 明治四四年ごろまでは主として土製で、破損すると、木灰を塗りつけ修理して使用した。大正元年ごろよりほうろう引きにしたもの、または鉄の鋳物製が出始め、昭和五、六年ごろよりアルミ製・真鍮製などとなり、その後、各種金属製のものが出た。
   茶 わ ん
 現在使われているもので、もっぱら砥部焼き陶器である。
   おかずわん
 主として木製で、何も塗ってなく、「ロクロ」で削りっぱなしの大きなものを使っていた。お客用として、輪島(石川県)や桜井(今治市)あたりから買った物を使用するものもあったが、それも一部で一、二戸にすぎぬありさまであった。茶わん、おかずわんとも、大正初年ごろより順次、体裁も改善されたものが流行し始めた。
   箸
 竹製で、たかきびの実を煮だした汁につけて、赤く着色したものを使用した。それに輪島物什器に漆塗りの木製はしをお客用に使用する家もあった。
   自在さん
 天井からなわをつり下げ、竹筒に梅の木で作ったかぎを通し、それになべ・羽釜・どびんなどをかけて、火をたき、いっさいの煮物を作った。このつりなわには、ばい煙が付着し、それに下で火をたくため不断にたき火の粉がつき、なわを焼き切って、なべ・釜などをいろりに落として割ったり、付近にいる者がやけどをしたりすることもあった。また時には火事が起きる場合もあって、極めて不便であったが、大昔から、明治四〇年ごろまでは、農家の九九㌫が、これを用いた。大正年間にこの自在かぎが鉄製となり、昭和初年ごろには、竹製は、一〇%もないぐらいに激減した。今日ではいろりさえなくなった。
   杓 子
 ヒノキ・スギ・ホウの木などを使った自家製が多く、お玉杓子も「ロクロ」で中を削り作ったものであったが、日露戦争後に金属製のものがボツボツ出始めた。貝がら杓子もあった。
   桶 類
 水桶にはすぎ材を使い、輪で締めて、水漏れのせぬように作り、毎年一回定期的に輪替えをしていた。このため、各地域ごとに、桶屋が一、二名いて、じゅうぶんな生活をしていた。昭和三八年ごろまでは桶屋が各家庭を回り修繕をしていたが、今日では、全然姿を見せなくなった。桶類も特殊なものを除いて、昭和三九年ごろより、金属またはビニールの容器に変わり、価格も安く取扱いも便利なものへと変わっていった。
   弁当入れ
 藩政以前の弁当入れは竹皮であった。竹皮ににぎり飯を包んで持って行くといった簡単な方法が、長く続いた。
 藩政の終わりごろから「めんつ」が用いられた。「めんつ」というのは、大きな竹の表皮を除き内身をけずって火や湯であたため一枚の板のように伸ばし、さらにそれをあたためて丸め、薄い桐の板を底につけて作ったものである。中身とふたと全く同じ形のものを作り、それを合わせて用いた。大きなものには一升(一・八㍑)飯を入れることができるほどであり、大きい「めんつ」を飯入れとして使用し、小さなのを「さいめんつ」といっておかず入れに使った。
 また、このころから、夏は弁当が腐敗しやすいので、それを防ぐため、風通しのよい「柳ごうり」を使用するようになった。
 昭和の初めごろになって、アルミニウムの弁当箱ができた。しかし、これはあまり小さかったのでもっぱら学童用として使用されていた。
 第二次世界大戦が始まったころから、飯ごうなども使われるようになった。このころから、「めんつ」や「柳ごうり」を入れて持ち運ぶ「弁当ほご」などが次第に姿を消していき、アルマイトの弁当箱が普及しはじめた。が、戦争のため物資が不足し、木で作った弁当箱や「めんつ」がまた使用されるようになった。
 昭和二八、九年ごろより物資が豊富になり、アルマイトやプラスチックの弁当箱が普及したため、「めんつ」や「柳ごうり」は完全に姿を消した。