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久万町誌

1 年貢(上納米)と隠し田

 昔の農民の生活については知るよしもないが、この地域の古老に尋ねてみると、ずいぶんおもしろいことがある。その一つは「年貢と隠し田」の話である。
 明治以前、すなわち藩政時代の農民は、来る年も来る年も城主に納める年貢が、あまりにも高額で年貢の割高の田を持つことが、苦の種であった。だから、年によってはその年のとれ高を全部納めても、なお足らない時があった。そのうえ年貢の取立ては厳しく、言語に絶していた。
   『ある年の暮れのことである。五郎太は、他家の手伝いから帰って、薄暗いいろり(ゆるりともいう)のそぼにむっつり顔で疲れたからだをよこたえていた。妻のトメは、いろりの明かりをたよりに、かいがいしく夕げのしたくをしている。八つになるむすこの太一は、妹のキクを背中におぶって、時折、おろ(木の小枝)を折ってはいろりにくべていた。自在かぎ(炉の上からつるして、鉄びん、なべ等をかける道具)につるしてあるのは夕げのおかずであろう。湯気をたててごとごとと煮えたぎっていた。いかにも平和そのものである。しかし、この茶の間には何か言い知れないものか漂っていた。
   明日は年貢米を納める日である。日ごろ明るい性格の五郎太ではあるか、米の収穫が終わった日から、どこかに寂しそうな暗い影がさしていた。それは、今年納める上納米がたりないことを知っていたからである。妻や子供に心配をかけまいと、あれやこれやと方策を考えてみた。しかし、これという良い方策は浮かばなかった。上司に事情を話して年貢を安くしていただこう。それがかなわなければ、自分が入牢されれば済むことだ。そう腹を決め、沈む気持ちをとり直して、楽しそうに夕げのはしを取った。
   朝がやってきた。上納米を持って殿倉(上納米を納めておく倉庫)へと急いだ。殿倉の前の広場では、数名の役人と大勢の人夫が、忙しそうに、右往左往していた。五郎太が着くと、すぐに帳簿を持った役人と数量を調べる役人と人夫たちが、五郎太のそばにやってきて上納米の点検を始めた。五郎太の顔色は次第にろうそくのように青ざめていった。しばらくして、検査に当たった役人が、何やら二人で話し合っていたか、急に人夫たちに五郎太の上納米を倉に納めるよう命じると、そばにいた五郎太を郡奉行の前に引き出した。
   五郎太は必死になって、ことの成り行きを詳しく説明した。奉行は目を閉じてじっと五郎太の話を聞いていたが、急に目を開き、哀れむかのごとく弱々しい声で、「入牢申しつける」と言って、奥の部屋に立ち去った。五郎太は殿倉の近くに設けられた留置場に入れられた。夕やみ迫る牢の中で、一人ぽつねんと坐していた。
   そんなこととは知らないトメは、夫の苦労をねぎらう気持ちだろうか、夕げのぜんに、ちょうしを添えて、今か今かと夫の帰りを待ちわびていた。その時、兄の牛之助が、あたりをはばかるかのようにそっと家の中にはいってきた。そして五郎太の入牢の旨を伝えた。トメの顔は急に青ざめ、気でも狂ったかのようにその場に泣き伏した。兄がいつ帰ったのかも知らないトメは、石仏のように、わが子をひざの上に抱いて、いろりのそばで一晩中まんじりともせずに坐り統けていた。
   夜のしらむころ、トメは何を思いついたのか、わが子を背中におぶって、親せきや縁者の家を走り回った。幸いトメの熱意と五郎太の人柄を思ってか、やがて、トメの家に数人の人が集まって何やら相談をしていた。それから半時余りの後、急に人の出入りが激しくなってきた。
   その日から数えて七日目に、兄の牛之助とトメが上納米の不足分を持って、郡奉行所へと急いでいた。』
 そんなことがあってから、農民は苦肉の策として、山の奥の方に田を掘り役人の目に触れないように、米を作って年貢の足しにした。
 これを隠し田と称した。しかし、そのほとんどは明治時代になって杉を植え今ではその姿をとどめていない。