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久万町誌

1 水田とならわし

 ア 田植えと共同作業
 明治年間の田植えは、毎年旧正月中に、日取りを決めていた。
 この地方の田植えは、い(ゆい)・こうろく・もやい・おいまくりなどの方法で、行われていた。これらは、助け合いや共同作業の一種である。その年の田植えについて、隣近所、五戸から一〇戸ぐらいが集まって、人数・日取り、その他必要なことについて、計画を立てていた。
 明治初年ごろの田植えは、定木植えではなかった。すなわち、植える人の考えで、みとロ付近は株間を近くその他は遠く植えていた。だから、一枚の田で、株間が四寸のところもあれば、七・八寸のところもあった。俗にいう自由植えである。
 当時の田植えは、すべて共同作業であったが、その中のおもしろい田植えを紹介しよう。
 当日田植えの行われる場所で、組違いの田植えが行われる時は、田植え競争が、行われたそうである。
 隣の組に負けては恥じだといって、夜の明けるのを待ちかねたように、朝早くから植え始めるのである。ひどい時は、月あかりをたよりにしろひき(田の表面をならす作業)をしたそうである。だから、朝の八時ごろに昼食をしていたとか。こんな具合いであったから、食事もすわって食べる者はなく、すべて立ち食いをした。時間も一〇分か一五分で済ませて田へでた。だから当時の人々は、このはげしい田植えの作業を「田植え戦争だ」と評していた。田植えが隣の組より早く終われば、終わった方の組が田のあぜに立って「万歳」と勝ちどきの声をあげていたそうである。また、ところによっては、田植えが終わると山小屋とか、いなき場で一杯やり、上きげんで民謡などを歌ったそうである。
  イ 田植え歌
 明治初年ごろは、田植えも前記のような状態であったから、歌など歌いながら植える余裕はなかった。明治の末期から大正の初期にかけて、この地方でも定木を使うようになった。このころから競争植えも次第に姿を消していった。だから、今までと違って、何日も田植えを続けると、からだの疲れはどうしようもない。そこで、疲れをいやすために歌などがとびだしてきた。これがこの地方の田植え歌のはじまりである。その後早乙女(田植えをする女。たすきをかけ、すげがさをかむるのが当時の習慣であった)の植える動作に合わせて歌えるようなふし(曲)が考えられた。
   『熊蔵は声が美しいので、その組で田植えが始まると、方々に雇われて田植えの手伝い(しろひき、定木持ち)をしながら、よく歌を歌ってみんなの気分を明るくし疲れをいやした。そのためか仕事がはかどった。
   その日も昼過ぎになると、熊蔵は歌い始めた。
   おさんばいの神は、庚申様よ、
     馬から降りて、傘をとれとな。
  (この歌は、ところによって多少違っていたようである。参考までに、次のようなのを載せておこう。)
   チヨチヨと鳴くはひよどり、
     鳴かぬは深山のおしどり。                 
   みんなも熊蔵の声に合わせたり、拍子を入れたりして、元気よく植え続けた。夕方になると疲れもひどくなるので、歌詞を作りかえみんなを笑わせた。その日もにぎやかなうちに田植えを終わった。』
 こんなふうにして何日か植え、その年の一大行事である田植えを終えるのである。
  ウ おさんばいさん
 ことばの由来については知る由もないが、その年の豊年を神にお祈りする行事であることにまちがいはない。昔からこの行事は、田植えの時にかならず行われている。
 この行事は、田の真中に(水戸口におろすところもある)田植えの季節に実のなる木(つげ、なんてん)を立て、その周囲に苗たばを寄せその上にお供え物を紙に包んで置き、「今年も米がたくさんとれますように」とお祈りをする行事である。下直瀬地区では「桝に一杯・箕に一杯・一歩(狭い面のこと)に米が七俵とれますように」といって、男の人がお祈りをするそうである。そして、田植えをしている女の人が、それにいきあたったらその女の人がたべるならわしになっている。
 おさんばいさんをおろす時期や回数は、各地区でちがっている。田植えの最初の日の午前中に、一回だけ行う所や、田植えを始めてから終わるまでに、三回行う所もある。
 供え物も所によって違うが、おいり(米・餅・大豆をいって混ぜ台わせたもの)・柿・米・いりこ(小魚を干したもの)・菓子などであったようである。
  エ さなぼり
 「早苗上り」といって、田植えが終わったことを意味するのだ。という古老もいるが、それはそれとして田植えが終わった晩に米の飯をたいて、夕飯をみんなで楽しんだ。
 「年貢と隠し田」の項で述べたが、当時の農民の生活は、言語に絶していた。日常生活における主食は、玉蜀忝(とうきびともいう)・粟・稗・芋などであったから、当時は米の飯は、農民にとっては御馳走であった。家によっては、酒もでるし、近い親せきなどを呼んで、みんなの苦労をねぎらったそうである。
  オ 田休み・虫おくり
 今日の八時間労働どころの騒ぎではない。食うために当時の人々は、朝早くから夕方遅くまで、田に出て働いたので、その疲労もひとしおであった。だから、その地域の田植えが全部終わると、田休みといって、農家もこの日だけは御馳走を作って、一日中、休養をとった。子供たちには、この休みが本当に待ちどうしくまた楽しいものであった。
 田休みのあくる日に、虫おくりといって御輿をかき、各町内を回り、神の力によってその年の虫を追い払って五穀豊じょうを祈る行事を行っていた。この行事は、秋祭りと違って各戸から一名ずつ出て、最初の組が宮出しの行事を行い、自分の町内を回って次の町内に引き継ぐ。そして最後の町内が宮入りの行事を行い、一日の行事を終わった。
 ところによっては、田植え後、二番草ごろの晩、川上から始めて順次川下地区へと日をかえて、小集落ごとに松明に火をつけ、かね太鼓をたたいて歩いた。この行事は多少方法はことなるが、どこの地区とも、第二次大戦のはじまる前(昭和一○年ごろ)まで続けられたが、その後姿を消したようである。
 この虫おくりのおもしろいところは、太鼓をドン・ドン・ドンとたたくと、かねをチン・チン・チンとたたき、そのあとに松明を持った人が声をそろえて、「稲の虫が目をむいだ。」と言って歩き回ることである。
  力 田の草取り歌
 田植えが終わると、その日から数えて一五日ぐらいたったごろに一番草を取る。その後一〇日から一五日おきに二番草・三番草を取った。この日数は、家によって多少違っていた。また丁寧な農家は四番草・五番草をとっていたとか。
 田の草とりは、夏の炎天下に太陽の光を背に受けて一日中水田をはう仕事だけに、背みの(背につけるみの)をつけて作業をする風景がよくみられた。特に三番草(とめ草ともいう)取りにいたっては、稲のたけが伸びているために、とがった葉の先で目を突き、それがために失明した人さえ生じたといわれている。
   『きょうも馬次郎は、隣の田の草取りに朝早くから出かけていった。すでに草取りの連中がおおぜい集まって火をかこんで何やらにぎやかに話し合っていた。馬太郎の顔をみるなり「今日も良い声を聞かせてや。」というものがいた。それほど馬太郎は、この地域では田植え歌や田の草取りの歌がじょうずであった。しばらくして、草取りの連中がそろったのをみはからって、世話役が、「今日もみなさんよろしくお願いします。」というと、次々と田の中にはいっていった。はじめのうちは話に花が咲いて、田の草取りもにぎやかであった。しばらくたって話し声が聞こえなくなったころ、馬太郎は、ころはよしと、美しい声で、「困りますぞやこの田の草は。」と、音頭を出すと、みんな声をそろえて一斉に、「せりにいがらにあの馬針よ」と、にぎやかに歌いながらつぎつぎと、田の草を取っていった。夕方には、疲れがでたのか、わいせつもはいって、女の人などは笑いこけながら、にぎやかにその日の田の草取りを終わった。』
 なお草取りに前後して、あぜ草刈りやあぜぬりの仕事があった。この作業をするときには、腰にかっこ(火すぼ)をつるしたものである。それは作業中にぶと(ぶゆともいう)に顔・くび・手・足などの血を吸われてかゆくてやり切れなかったからである。ひどい時には、血を吸われたところがはれあがって、医者にいったという話もある。