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久万町誌

3 山林とならわし

  ア 山焼き
 肥草を刈りとったあとに生えた草や、屋根がえ、炭だわらに使う萱を刈り取ったあとへ、火をつけて焼く作業である。これは、その年の春に行うのがならわしであった。その年に、よい草やよいかやをとるための当時の人々の知恵であった。
 昔は、「むたか」という、部落の共有の山(山のふもとに木がある程度で、あとは草山であった)に火をつけて焼いた。この作業は面積が広いので、ふれを出し、各戸から一名ずつ出て、火の番にあたった。古老の話によると、焼く範囲の広い地区では、何日も燃え続けたそうである。だから、この山焼きは、ずいぶん壮観なものであったという。
 しかし、明治四〇年に愛媛県知事として赴任して来た伊沢多喜男によって、「山林火入れ禁止令」が出され、山焼きも許可制になったので、その後、この壮観な山焼きの光景はみられなくなった。けれども、組の萱場焼きとか、焼畑を作る時に、若干そのなごりをとどめていた。
 昭和三〇年ごろ食糧事情もよくなり、屋根もかわらかトタンを使うようになったので、今日ではまったくその光景はみられなくなった。
  イ 焼 畑
 日あたりのよい、比較的傾斜のゆるやかな場所を選び、そこに生えている草木を切りたおしておき、それが枯れてよく燃えるようになったころ、風のない夕方に火をつけて焼いた。そして、次の日にこぜやき(焼け残ったものを集めて焼く)をして整地した。こうしてできた畑を焼畑とよんだ。
 そこへ、麦・とうきび・そば・大豆・小豆などをばらまきにし、そのあとでくわでうちおこした。その後は中うちをする程度で、手間を入れない作りかたをした。この方法は、焼き土をしたうえに、草木灰がまざって一、二年は作がよくできた。
 焼畑は一時的なものであったが、土地が肥沃で場所がよければ、山畑として長年作物をつくった。しかし、そうでない場合はそのあとへ、みつまた(紙の原料)や杉・檜を植えたようである。
  ウ 木飯米
 木飯米、このことばはあまり聞かないだけに興味をおぼえる。このことばは、久万山地方の生活をあらわしたものであろう。昔は一二月から三月ごろまで、積雪のために家の中にとじこもっていわざなどの仕事をした。そのために、一冬じゅうのたき木(暖をとるためや、食べ物のにたきに使う)を用意しておかなければ生活ができなかった。そこで、当時の人々はまきも食糧と同じ役割をもっていることを知り、「木飯米」とよんだのである。
 昔は一年中使うまきを家のまわりに積んだり、まき小屋をつくって、積み込んでいたりした。このまき作りは、仕事のひまな時に行われたそうである。
 おもしろいことに、このまきには三つの種類かある。その一つは、たきつけや急に火力を要する時に使うおろ(木の小枝)がある。二つめは、こまぎである。これは、一日中いろりで火をたくために、ぱっと燃えてしまわないために、腕首ぐらいの大きさの木を使った。三番目は、いろりの四方のすみからくべるもので、長さ七〇㌢ぐらい、直径一〇㌢以上の、大きな木を用意した。これをぐいぜとよんでいた。
  エ 肥草刈り
 昔は、今日のような化学肥料がないために、野草を肥料として使った。だから、お盆の休みが終わると家ごとに家族総出でこの肥草刈りに出かけた。
 藩政時代から明治時代にかけては、むたか(地域共有の山)へ草刈りに出かけたが、むたかがなくなってからは、各自の持ち山や他人の山(契約して刈らせてもらう)に出かけた。
 刈り取った草は束にして一ヵ所に集めて、くろ(直接、雨、露にあてないために、くいをたて、そのまわりに草束を積みあげたもの)に積んだ。
 肥草刈りは、容易ならぬ作業であった。今日のように、地下たび、手袋などのない時代であるから、竹や木の切り株に足をさされたり、手はかや切れをしたりしてみるもみじめなものであった。その上、この肥草は相当量(家によってちがっていた)いるので何日も草刈りが続けられた。
 この肥草は、春さきの山焼き前や苗しろ前に持ちかえり、小さく切って田のすみに積んでおき、田ごしらえの前に全面にふりまいた。また一部は、畑のさがし肥として使った。