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久万町誌

1 葬 儀

 火葬にしだしたのは、旧久万町(大字久万町)では明治の末期ごろからであり、それ以外の地域では、昭和一八・九年ごろからか、又は終戦後である。したがって、それ以前はすべて土葬であった。そのため葬儀はたいへんなものであった。
 死者があると、組内では各戸男女一名ずつが手伝いに出る。そのため、その接待もたいへんなものであった。男は棺桶から葬式用具一式を造り、墓穴を掘り、ふた石、おがみ石取りなどをした。女は死者の親戚縁者から身内のもの、組からの手伝いがたなどの、すべての人の食事の世話をした。たいへんな人数であるということからか、若しくは葬儀という不祥を忌んだためか、死者のあった家を「キリビ」といって、親戚と死者のごく親しい者がその家で接待をうけ、でない者はその家のごく近くの家を借りてそこで接待を受けた。そのうちを「クロビ」といった。
 死者に着せる白衣などは、死者のごく身近なものが寄って縫った。短時間に縫うために一枚の着物を幾人かが縫うのがならわしであった。また、一か所を両端から縫い合うということにもなっていた。
 死者に必要な白布(多く晒を用いた)は七反(五九・五㍍)を要した。
 その布を裁断する場合、物さしは絶対に使ってはならないということであった。なお「着物の裾は縫わないもの」とされていた。これは死者が「三途の川」を渡るとき、裾が水につかり、「裾に水がたまって三途の川が渡れなくなる」といわれていたからである。
 死者の衣類や身のまわりのものが縫いあがると、針供養と言って、そのとき使った針、鋏を祭り、縫った人全員に冷酒を出してふるまった。このあと縫った人全員に余り布を切って渡した。なお針も全員にわけ与えた。
 縫いあがった着物を折りたたまないで、死者に着せるのが常であった。
 余談になるが、葬儀に参列する人が葬儀用の衣服をそのとき新調して着る場合、葬儀のある家の大黒柱へ逆さに着せ、帯をさせてから、その後に喪服を着用した。これは不幸よけのまじないであったという。
 接待に多くの費用が入用であったり、百姓でも米が自由にできなかったりしたことなどから、お悔みには金の包みだけでなく、白米一升(一・八㍑)を持参したりした。この風習は現在も一部の地域で続いている。
 土葬については、寝棺だとふた石の関係や、死者の頭の部分や足の部分が人に踏まれることや墓地の面積を広くとるなどということで、坐り棺が多く用いられた。
 棺桶の中に入れる副葬品は現在も昔も大差はない。ただ心中でその片方が生き残ったとき。死亡したほうの棺へその相手方にみあう人形を入れた。また、「クルマ子」といって、できては死に、できては死にする家では、その棺の四隅に桑の木の又になった部分をたて、棺の中に「コノシロ」という魚の骨を入れた。
 人が死ぬと、まず北枕に寝かせ、枕がみへは「枕おい」といってご飯を供え、はなしば(別名でシキミともいう)を一本たて、線香、燭台などを整えた。
 枕おいのご飯は白米を二合五勺(○・四五○九㍑)たき、四個の丸いにぎりめしと茶わん一ぱいの盛りあげめしに、箸を垂直に立てて供えた。この際、にぎりめしにとった残りのご飯は、しゃもじにひとすくいで茶わんに盛った。こんなことから平素に「二合五勺のご飯を炊くな。」とか、「ひとしゃもじに飯を盛るな」などといった。
 なきがらに、生きているものが死を悲しんで涙を流し、その涙がかかると、死者の霊があの世へ行けないなどといった。
 なきがらの上に刃物を置くのは「なきがらの上を猫が通ると、なきがらが踊りだす」とか言って、魔よけのためである。
 棺桶になきがらを入れる前に衣服を白衣に着替えさせる。息をひきとるときに着ていた衣類は、葬式後洗濯してほすが、この衣類は四九日を過ぎるまで北向きにほしたまま、雨ざらし日ざらしで、乾燥してもとり入れないままにしておいた。こんなことから「夜越しの物干しはしないもの」などといわれた。なおこの着物はその近所でたいへん生活に苦しんでいる人などに着てもらうと、死者が早く仏になれるといって、生活の苦しい人に与えていた。
 火葬は、大正時代になって久万町に火葬場ができるまでは、野焼きであった。野焼きだと薪も多く必要だったし、焼けるまで多くの人がつききりで世話をしなければならなかった。こんなことから、火葬はごく少なかったのである。
 火葬にしたときは、翌日お骨あげをした。骨をひろうときに木と竹の箸を用い、骨をはさんでつぎもちに渡して壺に納めた。このことから平素には「片ちんばの箸を使ってはいけない」とか「箸でものをはさみ合いをしてはいけない」とかいった。