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久万町誌

四 盆おどり

 元禄文化が上方(京都・大阪)を中心として発達したのに対し、化政(文化、文政年間)文化は江戸を中心として発展していった。ともに江戸時代における庶民文化の代表的なものである。
 さきの獅子舞いや浄瑠璃、歌舞伎がいずれも寛政年間に久万町に広まったように、盆おどりもまた寛政年間のようである。
 寛政といえば化政文化よりも約一〇年ぐらい先がけているようである。
 獅子舞いが氏神の祭礼と結びついているように、盆おどりは檀那寺の精霊祭りと結びついて発達をとげたものと思われる。
 鎖国令によってキリスト教が禁じられ、キリシタン狩りが行われるなかで、それぞれは、各自が伸ずる宗派の寺院に登録をなし、檀家と檀那寺の関係を結び、寺院の諸行事に参加したものである。
 寺院の行事の最大のものは衆生教化・救済と、精霊の供養である。精霊の供養はなんといっても孟蘭盆会である。八月一五日に檀信徒はこぞって檀那寺へ参り祖先の霊をなぐさめたものである。寺でもこのとき精霊会を営み、供養をしたものである。この精霊会が終わると、精霊送りの行事として、踊りを踊った。これが盆踊りである。
 したがって盆踊りは祖先の霊をなぐさめ、精霊を送るための踊りであるところから、一種の「あわれ」を感じさせる面をもっていた。
 現今、全国津々浦々にみられる盆踊りの中には、戦勝を祈念したものとか、戦勝を祝ったものとか、作業の能率をあげるためのものとかがあるようだが、久万地方のものは、精霊送りと結びついたもののようである。
 檀那寺は各町村に一か寺ぐらいずつあったらしく、ために檀家はその町村一円であったようである。
 盆踊り当日は庄屋の命令で各戸一名以上(世帯主は必ず)寺に集まり、うちわやぼんでんを持って踊った。
 踊りもいろいろであったようだ。露峰の例をみると、傘と刀を持って踊る「志賀段七」、タオルを用いる「風呂屋おどり」、ぼんでんを両手に持って踊る「しでおどり」、「伊勢おどり」、「よしこのおどり」、「へいご」、素手で踊る「三つ拍子」、「手おどり」、「弓引き」、せんすを用いる「せんす踊り」、「二本ぜんす」などと多彩であった。
 おはやしは、太鼓やひょうし木が主で所によってかねや笛も用いた。太鼓とひょうし木だけのおはやし、それこそ精霊送りに最もふさわしいものであった。でも歌の文句はそれほど陰気なものではない。
 精霊送りが目的ではじまったこの盆踊りも時代の流れには抗しきれず、いつしか若い男女の交わりのかっこうの場となり、ついには県条例で風紀を乱すものとして取締りの対象とされ、明治末期には、盆踊りの群衆を追い散らすために警官が動員されたりもしたようである。風紀を乱すということも事実であった。男女の交際は男子は比較的自由でも、女子はよほどルーズな家庭でないかぎり、厳格に両親に躾られ、男性との立ち話でさえも他人にはみだらな行為とみなされていた時代である。恋愛による自由結婚などは認められていないところのことであるから、盆踊りが縁で、娯楽の少ないこともあろうが、踊りの途中で踊り子が蒸発し、暗がりをえらんで、恋を語らい戯れたであろうことは、今も昔も変わりのないことである。
 八月一五日に庄屋の号令で寺の境内に集まった男衆は、昼の間に大きなヤグラを組み、明かりの準備をなし、踊りの用意を整える。夜にはいるや老いも若きもうちつどい、ヤグラの上での拍子と歌声に合わせて、その周囲を輪になって踊り明かしたということである。はなやいだ中に一種の哀調を帯びたこの踊りも、その中間に「ほめのことば」や「ほめ返し」などがはいるにいたっては、当時の人々の人情のこまやかさや、とかく湿っぽいものになりがちなものをことさらにはなやいだものにしていこうとする配慮がうかがわれる。見る者、聞く者をして、踊りにさそいこむなにかがあるよう思われ楽しくなる。                  明治末期に県条例で禁止されたとはいえ、あちこちで受けつがれ、細々ながら今日に残っていることは、それでまた大きな意義がある。レコードにあわせて移入してきた踊り、郷土とはなんの関係も持たない踊りにうち興ずるのでなく、古い伝統と、郷土の祖先の生活感情が結びついたものをこそ、後世に伝えたいものである。
 以下にその盆踊りの歌詞を書きとめておく。
   〝おどり七月、盆ならよかろ
    (合いの手)ドッコイショドッコイショ
                  (以下同じ)
    おどりひずけで主に合う
    (合いの手)ヤットコセーヨーイヤナ、ヨーイヤナー
                  (以下同じ)
   〝山が焼けるが、飛ばぬか雉よ
     なにが飛ばりょか子をすてて
   〝ここで歌とうたら、聞こようか知りょか
           (聞こえるだろうか、わかるだろうかの意)
     川のむかいの二一に
   〝兵伍、兵伍と名はよいけれど
     兵伍さほどの きりょじゃない
   〝吉田通れば 二階からまねく
     とかもかの子の 振り袖で
   〝一つよ 一つ出しましょ 藪から笹を
     つけて流しょ やっと短冊を
  ○ほめことば
〝待った 待った 待ったというたら待っておくれや音頭さん、かよう申す私は、これより東また東、石鎚山や裏山に住まいする炭焼番子の子でござる。
 ちょっと久万町、用事あり、用事済ませて帰り道、鐘や太鼓の音がする。何かと思えば盆おどり、やれおもしろやこれをほめずに帰りょうか、帰ってみや子に話しない、話しないのはかまわねど、枯れ木も山のにぎおい、びんだれ女も茶の間の人衆、わたしゃ踊りにわくさのにぎわい、ちょいとほめて帰りましょう。
 太鼓打ちさんほみようかな、音頭とりさんほみようかな、踊り子さんをほみようかな、太鼓打ちさんほみようなら、日本諸国諸大名、ときの太鼓でばちがおじょうずか、音がよい、音頭とりさんほみょうなら、夏鳴くせみか虫の声、笙ひちりきや笛の音、奥山の谷々に鳴くうぐいすの声にもにたり。
 踊り子さんをほみょうなら、立てばしゃくやく、すわればぼたん、踊る姿はゆりの花、まだまだほめたきことは山々、山で木の数かやのかず、八反畑のけしの数、千里が浜の砂の数、へたな長こうじょうは踊りばんたんのさまたげとなる、夏の夕立ち、豆の葉ぶるい、ざらざらざっと、ほめこんだり〟
  ○ほめ返し
〝やれありかたや、ありがたや どこやいずこのたれふんぞ いやどっこいまちごうた、たれさんぞ 顔を面やしらなみや 顔を面を知ってなら破ればかまを腰にひっかけ 破れぜんすを腰にとどいこみ 踊り子一同ひきつれておひざもとまでたどりつき おん礼返すはずなれど これ 今晩は 踊りばらばらとりかかりいますゆえ ことばにて おん礼返しましょう なんずくしにておん礼返しましょう 飯ずくしにておん礼返すなら
 一で芋飯、二でにぎり飯、三でささけ飯、四で塩飯、五でごもくめし、六つ麦飯、七つ菜飯、八つ焼飯、九つ米の飯、十で豆腐屋のきらず飯、のどにつまってぎいつぎつ、
 ささ、やれこの、ようしよし〟(と踊りをつづける)