データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

久万町誌

2 無形文化財

  ア 川瀬歌舞伎(昭和四二年一二月二三日 町指定 演劇)
 川瀬歌舞伎は、川瀬村の下直瀬地域において始められたのでこの名が付いているのである。
 直瀬地域は古くから浄瑠璃の盛んな所であった。四国霊場巡拝で巡って来た人の中に、浄瑠璃の上手な人がいると、幾日でも接待して留まらせ、その指導を受けたりしていた。冬の農閑期には、わざわざ師匠を雇い、指導を受けることもあったという。いつごろから始まったのか古い記録はないが、文化一二年(一八一五)に熊次という人物が、自楽という芸名で浄瑠璃を語ったという記録がある。安政年間(一八五四~一八六〇)には、家内安全と五穀豊穣を祈願する地鎮祭に上演していたという。
 こうした素地があって大正八年(一九一九)、地域の若者や芝居の好きな人たちが、敷島会を組織して浄瑠璃芝居を始めた。この会のリーダー格であった山内恒太郎らが、地元出身の歌舞伎俳優、豊島屋豊次郎らの指導を受け歌舞伎を始めた。終戦後は更生座といっていたが、公民館ができると公民館の娯楽部となって今日に至っている。
  イ 万 才(昭和五四年四月一七日 町指定 万才)
 上浮穴郡に万才が入ってきたのは江戸時代である。松山城主久松候が、三河から伊予へお国がえのとき、三河の「喜八」という太夫を連れてきた。この喜八が、松山周辺や久万山に万才を伝えたのである。久万山では、美川村の大川地域と、久万の父野川地域に伝えられて、「久万山万才」と称した。この久万山万才は、大川と父野川を代表した呼び方であった。その後、郡内各地に広まったが、戦時中にすたれてしまい、終戦後にぼつぼつ復興していった。久万町では最も古い父野川万才と、最も盛んな上畑野川と上直瀬の万才を、昭和五四年四月一七日に無形文化財、万才として指定し、その存統と発展を期待しているのである。
 ○ 父野川万才保存会
 父野川万才は先にも述べたように、その歴史は、郡内で最も古く、一〇余種類の踊り方があった。それらをもって、昭和一六年(一九四一)までは、正月の月や農閑期に、県内各地を巡業していた。戦争が激しくなると踊り子がいなくなり途絶えてしまった。四七年に有志の手で保存会が結成され、小中学生らに伝承されることになった。
 万才は、めでたいときや、よろこびごとがあるときに舞われるところから、昔は巡業以外にも、よそから頼まれて出かけていくことが多かった。現在はその保存に公民館が大きくかかわっている。父野川地域を上げて、保存と伝承に努めている。
 ○ 上畑野川郷土芸能保存会
 上畑野川の万才は、大正六年の春、温泉郡へ出稼ぎに行っていた。上西之浦の八塚槙太郎が習って帰り、明杖、岩川、西之浦で教えたのが始まりであるといわれる。その後、代々上畑野川地域で伝承されていった。戦時中中断していたが、昭和五一年一月から本格的に活動を開始している。また、同年の四月一日には公民館を中心に保存会も結成された。
 ○ あけぼの会
 あけぼの会というのは、上直瀬の万才保存会の名称である。
 川瀬地域は、もともと温泉郡の重信町や川内町との交流が深く、そうした方面から、多くの文化が伝わっている。万才もその一つである。古くから、よろこびごとに舞っていた。戦時中は中断していたが、戦後下畑野川の宮城稔の指導を受け、隆盛に向かった。
 戦前のものと戦後のものとでは、多少舞い方に違いはあるものの、あけぼの会が結成されたことと、地元の熱意で、今また盛んになっている。
  ウ 獅子舞
 町内各地に伝えられている獅子舞は、相当古くから、秋祭りに五殼豊穣を神々に感謝し、子孫の無事長久と地域の繁栄を祈って舞っていたと伝えられている。獅子頭を使う人がいなかった戦時中を除いては、途絶えることなく連綿として継続されている三団体、五社神社獅子舞保存会、下直瀬獅子舞保存会、住吉神社獅子舞保存会を町の無形文化財として昭和五四年四月一七日に指定した。
 ○ 五社神社獅子舞保存会
 五社神社は、上直瀬の氏神様で、このお宮に伝わる獅子舞である。
 眠れる獅子を子役が起こして始まる三番叟、勇壮に舞う荒獅子、翁と媼が土地を耕して種播きをする。それを猿がほじくる。最後は「すまし」で終わる。いわば優雅な舞に終始するといったような舞い方である。
 ○ 下直瀬獅子舞保存会
 下直瀬の氏神、八幡神社に伝わる獅子舞いである。ここの獅子舞いは子役がいない。すべて大人である。三番叟で始まり、勇壮に舞う荒獅子のところでは、獅子のしっぽのほうから木製の大きな男根をちらつかせるのが特徴である。翁や媼が出たり猿が出たりは他と同じだが、最後が優雅な「くじゃくの舞い」となっている。
 ○ 住吉神社獅子舞保存会
 下畑野川の氏神、住吉神社に伝わる獅子は大別して三つの段階に分けて舞う。
 三番叟の祝い獅子は、背中に子役を乗せて出て来る。この舞いの終わりは、傘を持った子役(獅子の背に乗って出て来た子役)に退治されて終わる。二段目の獅子は、獅子の舞いの後に翁と媼、それに猿と狐で種播きやまぜ返しが入る。上直瀬、下直瀬は猿だけだがここでは狐が出て来るのが他と違うところである。また、このくだりではヌキミ(刀を抜いて持っている)の子役二人が獅子を退治して終わる。
 三段目の「神楽獅子」は、勇壮な舞い方をする荒ら獅子である。これは鉄砲を持った猟師に退治されて終わる。獅子退治が一度もないのは上直瀬の獅子だけである。下直瀬と下畑野川は、いずれも最後は鉄砲を持った猟師に退治されて終わっている。
 いずれの獅子も序・破・急の舞楽の構成形式をとってるのがおもしろい。