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久万町誌

1 明治維新以後

 安政の開港から九年たらずで明治維新を迎え、これを境に我が国は封建時代から資本主義時代に入った。
 そのころの薩長対徳川の対立抗争の裏口には、英仏両国資本がそれぞれバックアップしていたという事情かあった。こんな事情があっただけに、維新政府も西欧の資本主義生産様式をいち早く採り入れて、国力を強めるという政策を打ち出す必要にせまられていた。その政策は、富国強兵・殖産興業の旗印のもとに推し進められたのである。
 明治元年王政復古の旗印のもとに徳川幕府は倒れたが、それに引き続いて新しい制度が次々に打ちたてられていった。同二年の版籍奉還、四年の廃藩置県などのほか、農民や農業に関係のあるものを拾うと、関所廃止(明治元年)・身分の撤廃(同二年)・一般農民の米販売許可・田畑の勝手作許可・職業の自由(以上同四年)・田畑永代売買禁止の解除(同五年)などが実施されている。また年貢や上納(年貢米の別名)は、これまでの慣習どおりにすること(同二年)にしていたが、地租の改正について準備ができたので明治六年に地租改正条例が公布実施された。
 そこで、地租と年貢の違いを見ると、年貢は収穫高を基準にしていたのに対し、地租は地価を標準にしている。その税率は作柄の豊凶に関係なく一律に一〇〇分の三とし、物納をやめて金納一本にした。また、納税義務者は土地の占有者(所有権のあるなしにかかわりなく土地を占めている者)ではなく、その所有権者としたことなどが主なものである。この新しい地租も収穫量の三四%前後に当たり、そのうえ地方付加税が加わるので、藩政時代の貢租は上記のように六公四民前後であったから、それに比べてあまり軽くならず、納税者の負担はやはり重かったようである。
 これは、地祖の減免要求が徴兵令反対などとからんで、農民一揆の形で出た点から考えても容易に想像されることである。そのため明治一〇年には地租の税率を一〇〇分の二・五に引き下げたが、それにしても、地租が国の有力な財源収入であったことはまちがいなかった。
 我が国が世界に窓を開いたのは、西欧の先進国が産業革命に入ってから一世紀近いあとのことである。しかも、それを推し進める上に必要な資本の蓄積が行われていたわけではなかったので、これまでの主力産業であった農業部門から地租の形で資本を調達したこともやむをえなかったのであろう。つまり、政府は近代産業を育てるために、いろいろの保護政策を採ったが、その場合遅れて登場した資本主義を強行車で進めるために農業が犠牲になったとみてもよかろう。
 このころの農業として特に注目に価するものは、欧米農法の導入の試みであった。殖産興業(勧農の政策の一環でもあった)については、既に維新の当時から相次いで欧米を視察した政府の高官たちの意見を中心に、更に外人教師を招いて、欧米の農学、農業技術の吸収に努力が重ねられた。もちろん、人的交流ばかりでなく、種苗・家畜・農機具など、種類や範囲も極めて広く導入され、また、このため種苗園、農機具製作所など、各種の施設も設けられた。
 しかし、欧米の大農法導入の試みは、我が国の農業が零細耕作であること、牛馬耕法が未熟であったことから、あまり成果はあがらなかったが、零細耕法を基盤とする高い生産物地代による小作制度を軸として地主制を発展させたようである。
 明治三一年には一七一二万㌶を占めた国有林野や御料林野は、大正四年には九三一万㌶となっている。これは林野解放の要求に基づくもので、一八九八年からの御料地特売の開始、一八九九年の国有林野さげ戻法による国有林野の下げ戻し、不要存置国有林の払下げなどの結果である。また、明治四三年の地方林野の町村への統一という行政指導によって、昭和一〇年までに二〇〇万㌶の林野が町村に統一され、これも多くの場合、入会権の整理をともなった。
 そのころの農政は、行政官庁の取締り、検査・命令・強制を手段としての権威主義的な性格をおびていたといえる。農政に関する諸制度は、このころから第一次世界大戦までに地主制の確立に呼応し、かつ体系的に整備されたことに注意しなくてはならない。
 その主要なものとしては、まず日本勧業銀行法(明治二九年)による不動産金融制度の創設、耕地整理法(明治三二年)による耕地の区画整理とその助成、耕地整理法の改正(明治三八年)による灌漑排水事業の奨励、耕地整理法を全面改正した新法の耕地整理法(明治四二年)による、耕地整理事業を主体としての耕地整理組合制度の創設をあげることができる。
 明治の末期(明治四四年)までの農業生産の発展は、小作料の増収ないし安定、地価の上昇の効果を意図した地主層の先導のもとに行われた耕地整理事業(土地改良事業)に負うところが多かった。すなわち、明治の前期にみられた欧米農法の導入、特に大農経営論が消滅してからは、地主制の確立と呼応して、単位土地面積当たりの収量の増加、特に米作の土地生産性の向上をめざして農事の改良が進められた。しかし、耕地整理法も当初の制定意図にはそわず、制定後の結果は、むしろ、灌漑排水などに重点がおかれた。けれども耕地整理事業は、政府の補助のほか日本勧業銀行などの長期金融によって推進された。
 次に、農会法(明治三二年)・産牛馬組合法(明治三二年)産業組合法・(明治三三年)産牛馬組合法にかかわった畜産組合法(大正四年)による団体制度の整備がある。
 このうち、産業組合法については、明治四二年の改正で、各種の連合会の設立が可能となった。また、産業組合中央会が産業組合法上の機関となり、更に、大正一〇年には、連合会をもって連合会を設立することが可能となり、市町村産業組合、府県産業組合連合会、全国産業組合連合会という系統組織が整備されることになった。なお農会法については、明治四三年に改正が行われ、帝国農会が設立されて、市町村農会・郡農会・府県農会・という農会系統組織が整備されるにいたった。産業組合系統は主として信用・販売・購買などの経済事業を営み、農会系統は主として利益代表、技術指導の機能を担当した。そして、この二つの系統が第二次世界大戦中まで農業団体の二大主流となった。
 また、在来農法の改善については、明治二六年、国立農事試験場の設置をはじめ、府県農事試験場国庫補助法(明治三二年)による府県農事試験場に対する助成、前述した農会の組織などを通じて、農事指導の体制が確立された。このなかで産米検査・害虫駆除・予防・肥料検査などの取締行政が進められていったが、これとともに、明治時代の農法が確立された。
 第一次大戦(天正三年)から第二次大戦(昭和一六年)前までの農政は重化学工業の発展という資本主義経済の成熟期に向かう過程であった。地租は大正四年には、国税のうち一九・三%を占めるにすぎず、農業関係品輸出額、並びに、国民所得における農業所得も低下し、更に農業就業人口も減少するにいたった。そして、地主制は動揺を起こした。農政はこのような事態に対処して、地主制の防衛ないしは、改善を軸として、拡大する工業化人口に対する食糧の供給と、その価格の安定を重要な任務とし、保護政策の色彩を濃くしていった。そのため大正一四年に農林省が独立することになった。
 地主制の動揺は、第一次大戦を契機とする国民経済の高度化、これに伴う農業と非農業の不均衡成長、民主主義運動の台頭のなかで、寄生化した地主層に対する公然たる攻撃としての小作争議の全国的波及によるものであった。この動揺する地主層の防衛としては、大正一三年の小作調停法による小作調停と、大正一四年から始まる自作農創設維持事業のほか、昭和一三年の農地調整法を加えて、完璧を期したものといえる。
 むろん、地主制に対する攻撃としての小作争議をしずめるだけではじゅうぶんでないので、既に、いちおうの体系を整備した農政を更に補強し、明治の後期から始められた補助金政策を拡大し、さらに保護政策を推進するにいたったのである。農林省によって大正一〇年から始められた農家経済調査も、このような保護政策、特に小作農対策の基礎資料としての意味をもったものであった。
 この当時の農政は、地主制についての改善が、はなはだ微温的であったのに対し、農業の技術的改良などの生産政策は、明治の末期から大正時代にいたって更に強化され、耕地整理事業の奨励のほか、開墾の助成、病虫害予防の奨励、米麦の品種改良の奨励、施肥改良の奨励、優良な農機具の普及奨励、蚕糸業の改良の奨励、畜産の奨励、小麦増産の奨励、農業団体の技術員の設置などの補助措置が講ぜられた。また昭和初期の恐慌に際しては、生産政策としての技術改良にとどまらず、救農土木事業のほか、村を指定して、その村の農山漁家の経済更生をはかるための総合的計画の樹立と実施を推進するものとしての、農山漁村経済更生の助成、産業組合の組織の拡充、共同作業場の設置、農山漁家の負債整理、農村工業の奨励などの施策も講ぜられた。これらは農山漁村経済更生運動のための施策として実施された。久万町でも昭和一五年、農村経済更生整備の指定を受け、重要農産物の計画的生産、農家経済安定計画が樹立され実施に移された。
 明治の後期に確立した農会制度による指導体制のもとでは、麦や雑穀の消費が減少する過程で、政策の重点はますます米に集中され、農政も食糧問題に対処するようになった。
 大正時代に入ると、朝鮮、台湾米の輸入の増加、大正四年には豊作のため、米価は著しく低落し、緊急勅令によって米価調整令が制定され、近代的な米価政策の端緒が開かれた。そして、大正六年には米の季節的な出回りの調節、農家の窮迫販売の防止のため農業倉庫法が制定され、農村の産業組合に農業倉庫の設置に対する助成がはじめられた。久万町でも西明神に昭和一一年三月、上直瀬に昭和一一年八月一〇日、旧川瀬村下畑野川に昭和一二年八月一〇日、旧久万町菅生に昭和一三年一〇月、旧父二峰村露峰橋詰に昭和一六年九月一〇日、東明神に昭和三四年七月にそれぞれ設置された。そして集荷、販売業務を開始して現在におよんでいる。大正六年末の米価の高騰、翌年の米騒動、大正九年の米価の暴落に対応して、大正一〇年には米穀法が制定され、恒久的な制度として政府が米の需給の調節のため、米の買入れ、売り渡しを行った。この米穀法の制定の意味するところは、我が国の農政が初めて本格的な食糧問題にも対処しなければならなくなったということである。しかも、これに対応するには、日露戦争ごろからの生産政策だけでなく、政府による恒久的市場介入を必要とするにいたったからである。
 この米穀法は、その後まもなく米の市価の安定が不充分であるとして、大正一四年第一次改正が行われた。続いて、昭和の恐慌、朝鮮、台湾からの米の移入によって、米価が引続き低落したため、米の需給調整に関する根本的な方針の樹立か要請されたので、昭和六年に米穀法の第二次改正が行われた。更に昭和六年からの米価の大暴落を背景として、強力な米価政策樹立のため、昭和八年に米穀統制法が制定され、いまや農政の課題は食糧問題より農業問題となった。
 米殼統制法は、米価について最低価格と最高価格を定め、最低価格による売り渡しの申し込みと、最高価格による買い入れの申し込みに応じて、それぞれ無制限に買い入れ、または売り渡しを行うことになっていた。この点が、米穀法とは大きな相違であり、これによって米の需給と価格の調整はいっそう強化され、間接統制として完成した。
 当時、米についで重要な農産物であった生糸についても、大正時代に入って価格政策が行われ、昭和一一年には、間接統制の方法による糸価安定施設法が制定された。
 米と生糸に関する価格政策のほか、経済立法としては肥料配給改善規則(昭和五年)重要肥料統制法(昭和一一年)家畜保険法(昭和四年)農業保険法(昭和一三年)産業組合中央金庫法(大正一二年)などがある。