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久万町誌

3 終戦後の農政

  ア 占領下の農政
 占領下の農政の目標となったものは、農村の民主化と食糧の確保であった。それは、一方において、第二次世界大戦は全体主義に対する民主主義の闘争でもあった。したがって、連合国の勝利は、我が国の民主化を必要とした。この大戦により我が国の農業生産は必然的に低下し、終戦後は食糧問題をいっそう深刻化させた。
 まず、農村の民主化については、連合国による昭和2〇年一二月九日の「農地改革に関する覚書」として、その骨子が示された。終戦直後の農政上の諸施策は、この「覚書」の指示する改革の方向に沿ったのであった。
 この「覚書」の発せられる前に、既に、政府は、全体主義的基調のもとに地主と小作の階級的対立をできるだけ露呈させないという、昭和恐慌以来の方針を転換して、地主制の改革を意図し、農地調整法の大改正を立案し、帝国議会に提案していた。その時に発せられたこの「覚書」は、農地改革に関する限り、直接的には二つの結果をもたらしたのである。その一つは、帝国議会で審議中の農地調整法の改正法案、すなわち、第一次農地改革法の審議が促進され、昭和二〇年一二月二八日に農地調整法の改正法律が公布された。それは、生産物小作料の定額金納化とその金納小作料の公定のほか、在村地主の貸付地で平均五㌶を越える面積と不在地主の貸付土地を小作人に解放することを主たる内容としていた。そのうち実施されたのは小作料の金納化と公定の部分であり、小作地の解放、すなわち、自作農創設は「覚書」に基づく第二次農地改革に待たねばならなかった。ついで、翌年一〇月一二日に、小作人の賃借権の強化と、農地委員会の民主化と権限の強化を主な内容とした農地調整法の第二次改正のほか、在村地主の内地平均一㌶、北海道平均四㌶を越える小作地と、不在地主の小作地の解放、未墾地の開放を内容とした自作農創設特別措置法の公布がなされた。これらが第二次農地改革の法律的基礎となった。
 農地改革による小作料の定額金納化と小作地の解放は、当時のはげしいインフレーションの進行によって、小作人にとってはいちじるしく負担の軽いものとなり、また解放された小作地は昭和二五年七月までに、一九三万三〇〇〇㌶(小作地総面積の八割)に達した。
 久万町で当時解放された小作地面積は、旧久万町で二二八㌶、旧川瀬村で一七六㌶.旧父二峰村で七八㌶であって、小作地総面積の約九割に当たっている。こうして戦時中の後退を余儀なくされた地主制は、この農地改革によって解体されることになった。この農地改革が今日までの農村の民主化と農業生産の上昇の基礎をなしたのはいうまでもない。しかし、零細耕作の改革にまではおよばなかった。また、国有林野などの山林原野の解放は一部分にとどまり、御料林が国有林に編入されたにすぎなかった。
 農地改革の「覚書」は単に農地改革にとどまらず、創設された自作農の維持策として、農業金融制度の創設、農産物の価格の安定策の確立、農業改良普及事業の開始、農業協同組合の育成などを指示していた。農地改革につづいて農村民主化の立法は、昭和二二年の農業協同組合法である。これは、全体主義を基調とする権力的統制団体であった農業会を解体して、農民の自主的協同組織を確立しようとするものであった。また、翌年の農業改良助長法による普及事業は、従来の農会、畜産組合などの技術員、(のちの農業会の技術員)によるものではなく、政府の援助のもとに、府県の職員である普及員が主体となって、民主的教育の原理にもとづいて、科学的な知識を農民に普及していった。そうして、農業技術指導による農業生産の発展をはかるとともに、生活技術指導によって農家生活の向上をはかることを目的としていた。なお、この普及事業の民主的運営に寄与するため、郡単位の地域ごとに、農業者の代表者などからなる農業改良委員会が行政措置によって設けられた。
 農業協同組合制度は、農地改革によってつくり出された自作農の転落を防止するという目的をもつものであったが、これと同じような主旨をもつものに農業災害補償制度がある。昭和二二年に制定された農業災害補償法は、従来の農業保険法と家畜保険法を統合したものである。共済目的としては小作料を対象からはずし、桑葉にかえて繭についての冷害・霜害などを加えるなどによって、災害に対する保険作用が著しく強化された。そのための組織として市町村に農業共済組合連合会が設けられた。
 久万町にも昭和二四年に、旧久万町、川瀬村、父二峰村にそれぞれ農業共済組合が設立された。
 食糧確保のために臨時農地等管理令にもとづいて行われた農作物の作付統制は、終戦直後いち早く撤廃された。また供出割当は食糧管理法の施行規則に基づく食糧調整委員会、(のちに、これにかわった農業調整委員会)によって民主化が企てられ、食糧の集荷は農業会の解体とともに、農業会による一元的集荷統制の廃止をみた。土地改良事業については、昭和二四年に従来の耕地整理組合法にかわって、土地改良法が制定され、地主中心の土地改良から耕作者中心の土地改良に改められた。土地改良などのために必要な長期低利の農業金融については、昭和二六年に農林漁業資金融通法が制定され、特別会計による政府資金の融通の道が開かれた。これは、地主制の打破に対応する長期金融制度であった。
 農村の民主化のほかに、いま一つ戦後の農政の目標は、農産物の生産の増強や、食糧の供給の確保にあった。終戦直後は戦時以上に食糧需給が窮迫したので、食糧確保の施策も、より強力なものとなった。すなわち、昭和二一年二月には緊急勅令によって、供出をしない農家に対する収用を規定した食糧緊急措置令が公布された。これが、いわゆる強権供出の基礎となり、更に、昭和二三年には、五か年の時限立法として、食糧確保臨時措置法が制定された。これによって農業調整委員会が設けられたほか、作付前に作付面積の割当と供出数量の割当がなされるようになった。これらの措置とならんで、各種の増産奨励施策が食糧の生産確保を目的としてなされた。
 農民がその労働の成果を公正に享受しうることを目的とした農地改革によって、農業生産力を開発する経済的、社公的基盤が整えられた。その基盤にたって行われた各種の食糧増産の対策は、やがて、その成果を結実することになった。これを、米の生産についてみると、総生産高は終戦直後の昭和二一年~二五年の九四〇万一〇〇〇㌧(一OO%)から、昭和二六年~三〇年~三五年の一一九四万三〇〇〇㌧(一二七%)と増大している。
 零細耕作の問題に関する対策としては、開拓があげられる。自作農創設特別措置法では、未墾地の開発に一つの重点をおいていた。そして、昭和二六年までの開拓面積は四一万㌶を越え、入植戸数一四万五〇〇〇、増反戸数も一〇万戸に達した。確かに、これは終戦直後の就業対策や農村の過剰人口対策の一助にはなったが、零細耕作の克服にはならなかった。
 久万町においても昭和二七年までの開拓面積は、旧久万町で一二〇㌶、旧川瀬村で一一七㌶、旧父二峰村で二四五㌶、計四八二㌶を越え、入植戸数は九八戸に達した。
  イ 農政の再編
 政治的独立と経済的自立の準備にともなって、「統制経済から自由経済へ」が新しく農政の基調となり、更に政治的独立や経済的自立が達成されると、戦後の農政の再編が課題となってきた。
 統制の撤廃は昭和二四年から始まる。蔬菜・繭糸・鶏卵・食肉・農機具・農薬・飼料・肥料の順序で、配給統制や公定価格の制度が撤廃され、主要食糧の関係についても、昭和二四年から昭和二六年にかけて、いも類、冬作雑穀・夏作雑殼の流通、価格がすべて自由となった。
 また、麦についても、昭和二五年から直接統制廃止の方針が立てられ、昭和二七年七月から、間接統制に移されて現在に及んでいる。また第二次世界大戦中の食糧営団にかわった食糧配給公団は、昭和二六年四月から廃止され、民営の卸小売業が認められることになった。なお、農地制度については、農地改革後、既に農地改革による創設自作地の自作廃止の場合の政府の買戻制が廃止されており、更に農地の価格統制は昭和二五年七月三一日から行われなくなった。
 自由経済への移行のなかで、全面的統制として残ったものは米だけである。しかし、その米についても、統制撤廃がしばしば問題になり、昭和二七年産米については、政府部内では供出後の自由販売の意向が強かった。しかし、昭和二八年は凶作であり、供出割当は著しく困難な事態となり、供出割当の数量は二一○万㌧にすぎず、統制撤廃論は影をひそめた。その後、供出割当の制度をそのまま存統することも困難となって、予約売渡制度が考案されるにいたり、昭和三〇年産米からこれが実施をみるにいたった。その当時は、それが成果をおさめるかどうか危ぶまれたが、同年産米以降の連年の豊作に支えられて、予約売渡制度は軌道にのった。
 サンフランシスコ条約が締結され、それが発効するころになって農政の再編か企てられた。
 戦後の農政の再編としては、まず、昭和二七年の農地法の成立をあげなくてはならない。これによって、農地改革の成果の維持、すなわち自作農主義を恒久化する法制が整備されたのである。そして昭和三五年には小作地は三五万六〇〇〇㌶、農地面積の六・七%を占めるにすぎなくなった。
 久万町でも昭和三五年には小作地は六五二〇㌶、農地面積の五・○%になっている。
 農地法が成立した翌年には、農林漁業資金融通法にかわって、農林漁業金融公庫法が制定され、従来の特別会計による事業は、この公庫によって行われることになった。そして、昭和三〇年に成立をみた自作農維持創設資金融通法にもとづく、自作農の維持創設のための長期、低利の資金の融通も、この公庫によって行われることになった。この金融制度の根拠としては、農地改革後の実態として、土地を担保とする長期の農林漁業資金の供給の道がなくなったことに対応することにあるが、他の動機としては、補助金行政の批判に対する一つの回答でもあった。
 補助金行政についての批判は、補助金の交付を受ける府県市町村からみると、補助事項が多岐にわたり、しかも補助金額が小額であるため、重点的、総合的な事業実施が困難であり、また、補助残額の負担などによって、府県市町村の財政が制約され、農業者などの自発性を高めることができなかった点にあった。
 補助金行政の批判に対する一つの回答ともみられる新農村振興事業は、新農村建設ともいわれるもので、五か年計画で、新しい「村づくり」の基礎として適当な地域について、土地改良、耕地整理、病虫害防除施設など、従来、各種の補助金の対象となっていた事業のほか、その地域に必要な共同施設、共同事業を総合的に行うものであった。そして、政府はこれに対して、同一地域に二か年継統して補助金と農林漁業金融公庫の融資を行った。
 この対策によって指定された地域数は四五四八で、その総事業費は五八三万三九〇〇万円であった。それは、各種の補助制度を総合化し地域の必要に応じて重点的な事業の実施を可能とした。
 久万町でも旧川瀬村が、昭和三一年に指定を受け、農村振興計画を樹立し、特別助成事業として二八種目、事業費で一〇〇〇万円の事業を行った。旧久万、父二峰地区は昭和三五年に指定を受け振興計画を樹立し、一八種目、事業費一〇〇〇万円の事業を行っている。
 ついで、農業団体再編成ということが行政的、政治的な議題になったのは、食糧碓保臨時措置法に基づく農業調整委員会、農地調整法に基づく農地委員会、農業改良助長法関係の農業改良委員会の三者を統合した農業委員会法が、昭和二五年に成立してから間もなくのことであった。占領政策の再検討という一般的傾向もこれに拍車をかけた。その方向は、農民と農業の代表機関を整備するため、農業委員会法を「農業委員会等に関する法律」に改め、市町村の農業委員会の組織、権限を改正するほか、あらたに府県に都道府県農業会議、中央に全国農業会議所を設けるものであった。べつに農業協同組合法を改め、農協事業の刷新強化をはかるため、府県と中央にそれぞれ農業協同組合中央会を設け、農業技術指導は、農業改良助長法によって、国と府県を主体として行うことになった。ところが、農業団体の再編成の問題はこれによって落ち着きをみせず、農民指導組織の強化の意図を含みながらも再燃し、結局昭和三二年四月に「農業委員会等に関する法律」に改正が加えられた。しかし、農業委員会などの系統組織が農業の技術指導を合せて目的とするという点については、改正法律のなかにとりいれなかったのである。すなわち、農業団体の成立するのを好まなかった農協系統組織の反対があったばか
りでなく、技術指導についても普及事業との調整が困難であったからである。今日では、単に技術指導という以上に、経営改善の指導とそのための施設が必要であるが、これについては、一般的には普及事業も農協系統も、その機能を十分に果たしているとはいえない。
 戦後の農政の一つの目標をなした食糧の確保という点については、昭和二五年代に入って、土地改良事業が強力に展開されるなかで、従来からの品種改良が推進された。特に第二次世界大戦中から発展してきた水田土壌学による秋落田の理論的な解明、低位生産地の調査事業の進展、畑土壌の研究の発展、開拓地の土壌調査及び栽培学による水稲の保護、苗代技術の進歩、水稲の早期栽培技術の確立などの栽培法、施肥法が新たな発展をみせた。
 また病害虫の発生予察事業の整備、新農薬のDDT、BHC、有機燐剤、有機水銀剤の導入による病害虫防除技術の一新、動力耕耘機の普及などによって、昭和三〇年ごろまでに、農業技術は戦前をはるかにしのぐ高い水準に達した。
 これとともに、世界的な農産物の過剰化を背景として、食糧確保という農政の目標は、その影を薄くしてきた。米麦を中心とする食糧の確保よりも、農産物の価格政策が重要度を増してくるとともに、畜産物をもふくめた総合的な食糧対策の要請と農家の現金収入を確保する必要から、畜産振興が農政の新しい進路として、多くの人々によって唱えられるようになった。
 既に昭和二七年には、農協系統の資金を活用して農家に家畜を導入するため、その資金に対して利子を補給する主旨で、有畜農家創設事業がはじめられた。その翌年には、右畜農家創設特別措置法が制定されて、利子補給のほかに、資金の貸し付けをする農協などに対して損失補償を行うことになった。なお、この制度は、のちに昭和三六年の農業近代化資金助成法の制定によって、そのなかに包含されることになった。
 産畜物の需要は増大するが、価格は、季節により年により若干の変動がある。生産そのものが価格変動に伴って周期的に変化し、価格が高いときは飼育頭数が増加し、それが肉として出回るころには供給過剰となる。これによって、価格が下落して、生産を手控えると、次に供給不足になるという悪循環をくり返してきた。しかし、畜産物の需要度が増してくるにしたがって、その価格安定が望まれ、そこで、成立したのが、昭和三六年の「畜産物の価格安定等に関する法律」である。
 こうして、自由経済への復帰と政治的独立は農政の低迷ともいうべき現象を呈した。その間に、国民経済は戦前の水準に達し、やがて、これを越えるにいたった。戦争直後、昭和一八年には、産業人口において四九・五%(林業を含む)、国民所得において二五・七%に達していた農業も、昭和三二年には産業人口において三六・七%、国民所得において一三・九%と低下している。そして、農業と非農業の間に、生産性と所得の格差が顕現化してきた。いわば国民経済の繁栄のうちに農業問題が生ずることになり、農政はこれに対応しなければならなくなった。