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久万町誌

4 農道開設事業

 明治二四年に松山と高知を結ぶ国道が開通したため、人や物資の輸送に客馬車、荷馬車が利用されるようになった。そこで車道に対する住民の関心も次第に高まってきた。各町村は、この国道と町村を結ぶ町村連絡道の開設に着眼し、大正初期から工事が始められることになった。しかし当時の国の施策としては、工鉱業の発達に重点が向けられていたので、国の助成金は少なく、加えて、土木技術も人力労働中心のものであったため、道路の開設に長い年月がかけられた。
 やがて、この町村道は、県道に編入されたが、農道の開設工事が始まったのは大正八年である。農村を吹きあらした恐慌のため、救農土木事業として、入野に幅員三㍍の農道を開設した。これが道路開設工事のはじまりであった。
 当時の農道といえば、幅員二㍍の荷車、大八車が通行する程度のものであった。自助車が将来通行するとは考えず、農地を道路の敷地としてつぶすのをいかにして少なくするかが大問題であった。
 農家の要望により農林道が開設されるようになったのは、主として第二次世界大戦後で、この時期になっても、道路敷地の協議がなかなかまとまらず「道はつけたし、農地はつぶしたくなし」のなげきを、大部分の人々が経験している。
 建設初期の道路は、農道あるいは林道といっても、人の通行を中心とする地区道がその大半を占めていた。本来の生産目的である道路の建設ができるようになったのは最近のことである。
 物資の大量流通、あるいは耕耘機の一般への普及、自動車産業の急速な発展は、おそまきながら徐々に道路に対する農民の認識を変化させていった。農地や林地の価値も、道路によって大きく支配されると考えるようになってきた。
 特に合併後において久万町は、農林道の建設促進を重点施策として取り上げ、国費・県費の補助金の上に町費を、工事費の六割五分に達するまでつぎ足して助成を行った。更に用地の補償費についても、同率に達するまで助成するという町条例によって、従前の農民負担を大幅に軽減する措置をとった。このように公共投資の増大が行われたので、三五年以降は、農道・林道の開設も急速に進展した。
 農林業の生産手段は、その大半が運搬であるといっても過言ではなく、久万地方のような地理的条件に恵まれない地域こそ、農林道の開設に力を入れなければならないわけである。
 なお、農林道で建設されたものの内、五年以上の経過があれば、町道編入が認められており、現在一級町道(幅員三㍍以上の車道)の大部分は農道、あるいは林道として建設されたものである。
 現在農道として残っているものは表のとおりである。

土地改良事業調書(昭和43年4月現在)

土地改良事業調書(昭和43年4月現在)


農道調べ(3m以上)(昭和43年4月現在)

農道調べ(3m以上)(昭和43年4月現在)