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久万町誌

5 耕地整理事業

  ア 中野村耕地整理組合
 中野村地域は、旧川瀬村・仕七川村・久万町の村境にあり、四方を山に囲まれた小盆地である。中央を有枝川が貫流しているが、耕地はその両岸と比較的高い道路沿いに開けている。
 したがって水田開発のためには、有枝川の上流から山はだの急斜面に水路を開削しなければならなかった。
 明治三九年、村長経験もある秋本半次郎が、地域の有志と図り、本流をはさんで両岸の水路開削と水田開発を目標として村営事業を起工した。
 既に述べたとおり、明治政府は三二年の土地改良法制定、三八年同法の大幅改正、四二年同法の根本的改正などによって土地改良事業の奨励を行ったが、この政策を巧みに利用した措置が取られており、きちょうめんな記録がなされている。
  ○明治二九年、村営にて土地改良事業着手。
  ○明治四二年一月、中野村耕地整理組合結成。
  ○大正五年一二月末、工事完了。
  ○昭和七年、換地計画のための確定測量。
  〇昭和一二年、登記完了。清算事務。
 工事着工から完了までの期間が一一年。手のみでコツコツ水路を掘り、谷間や河原の石を集めて畦畔を積みあげ、人の背で土を運んだ苦労はたいへんなものであった。
 工事完了後、登記が終わるまでの期間が二一年もかかっている。当時は土地改良政策推進の立場から、だいたい一〇年間くらいは旧地積のまま課税するという行政指導があったからである。
 工事内容をみると次のごとくである。
  ○両岸の水路。二〇〇〇㍍
  ○新いでがかり耕地整理二町八反八畝二五歩(一二名分)
  ○旧いでがかり耕地整理三町一畝二五歩(一三名分)
 合計五町九反二〇歩の開田を含む耕地整理が行われている。総事業費は、決算書に現金処理として支払いされているものが、「壱阡九百八拾六円六拾六銭一厘」と記録されており、これを反当たりの経費にすると三三円八〇銭となる。
 明治四四年前後の久万地方の米一升の代金は、一四銭から一六銭くらいであり、労賃は男が三〇銭、女が二一銭程度であった。
 したがって、だいたい反当たり、男子一〇〇人役の経費で事業ができていることになる。
 耕地面積五町九反に対し、完成水田の枚数は一三一枚で、一枚当たり四畝余りという非常に小さな区画である。この水田をみると、高い畦畔が丹念に石積みで仕上げられている。
 この事業に対する補助金は、次のとおりである。
  ○区画整理費補助金    二五三円七九銭
  ○道路整備費        四一円
  ○計           二九四円
 したがって、総事業費に対し約一割七分弱の補助金となっているが、登記の費用や、付帯事業費を除くとだいたい二割の補助金となっている。
 関係農家は一八戸であったが、(新いで、旧いでを合わせて)工事金の清算もなかなかできにくかったらしく、役員が年四分の金利で立て替えて清算している。結局、総決算は三〇年後になっており、当時ののんびりとした時代がうかがえる。
  イ 六反地耕地整理組合
 旧川瀬村役場の北側に開けている水田は、郡内一の美田と言われ、山奥にこんな美田があるのかと旅人に驚きの目を見張らせたという。
 この耕地整理事業は、中野村部落と同じく村長経験のある岡小八が中心となって行ったものであり、明治四四年に一三町八反の耕地整理事業を起工した。
 当時、この地区の大半は住吉神社の境内に接し、大木の残根やすず竹の林が散在していた。一部開墾された畑もあったが、とうもろこしさえできにくいやせ地であった。
 計画は、この地を開田すること並びに、従来より聞けていた水田は湿たが大半を占めているため、区画を変えて排水を完全にするということであった。しかし、旧田の地主と新田となる地主との意見が統一されず、話をまとめるのに一年を要した。
 計画・測量は、県耕地課の続木技師が常駐して行った。区画の基木を長辺三〇間(六〇㍍)、短辺一〇間(二〇㍍)、幹線農道一間、支線農道半間とした。当時、県が耕地整理の基準として奨励していたものであり、それほど広い田は作りにくいという耕作者の反対もあったが、続木技師が説得して承知させたということである。
 当時は、低い所から一枚ずつ仕上げていくという工法であった。まず、表土を五寸程度はぎ、次に竹のしがらで畦畔をくんで床をならし、技師に機械を立てて均平度を検査してもらって表土をもどすという順序であった。一反歩に平均一〇〇人役を基準とした。
 工事は、渡部林三郎・渡部彦次・日野福松の下請けで進められ、その費用は反当たり三〇円程度であった。
 排水暗渠には、松小丸太、小竹を埋め、暗渠は石積みとした。
 人夫賃は、当初男が二五~三〇銭、女が一五~二〇銭であったが、工事の終了ごろには、男四五銭、女二五銭となっていた。もちろん人夫の労賃は働きぶりによって大きな差がつけられていた。この工事によって現金収入がふえ、部落の二軒の酒屋と、六軒の雑貨商が繁盛するなど、ある程度生活にゆとりができてきた。
 人夫の食事は、とうもろこしかむぎが八割、米が二割、副食は煮ざい、つけ物、味噌という粗末なもので、いりこが入れば上等の部類であった。食事と休場の合図には鈴を振った。
 道具帳によると次のようなものを使って、工事を進めていたことがわかる。
 じょうれん・つるはし・さらい・みつご・三尺モッコ・かき棒・木づち・じょうれんぐわ・しょうせん棒・げんのう・
 工事は大正三年に完成した。出来型測量をしてみると、余裕地が出たので、それを神社地・寺地・組地とした。登記が終わったのは昭和二七年であった。

中之村耕地整理組合役員

中之村耕地整理組合役員


六反地耕地整理組合役員

六反地耕地整理組合役員