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久万町誌

3 商品化農業の展開

 愛媛県は、昭和二五年に農務課長岡田慎吾を班長とする総勢二七名の山村農業調査班を編成し、旧川瀬村を調在地区に指定して、総合的な調査を行った。
 この調査の目標として報告書は次のように述べている。
   山村は各種の農業地帯の中で最も複雑にして、しかも数多くの問題を未解決のまま抱えている地域であるにもかかわらず、この地帯は、また、政治と学問から虐待された地域である。この調査は山村経済の研究と、その改善に役立つことを目標として行われた。
 調査は、多方面の問題にもふれているが、中でもこの地帯の米、麦、雑穀などの穀物生産に重点をおいている。そうして、山村の共通問題である零細な経営と、低い生産力(米二・一石、麦一・三五石、トウモロコシ一・三五石、甘藷二二三貫、大豆〇・三石、以上はいずれも反当)の中で、農家は経済的にも、文化的にも不遇な状態におかれていると指摘している。
 昭和二六年、村長に就任した日野泰は、この問題を直視し、農協と村当局の強力な提携によって、商品化農業への転換・開発を意図した。
 その実績をみると、まず出荷野菜として、夏出しキャベツ、エンドウ、ジャガイモ、加工と結びつけたみの早生大根、工芸作物としてたばこ、畜産では酪農、果樹のリンゴなどを奨励した。当時としては、実に大胆な方針を打ち出し、強力に推進した。
 野菜生産は、従来の穀物生産と異なり、短期間で市場に出荷して売りさばかねばならず、新規の産地として市場を開拓する一方、信用確保の面からは品質と生産量、継続出荷という大問題を解決しなければならなかった。しかも、青果物は価格の変動もはげしいだけに農家も不安があって、初期の生産目的達成の途上に非常な困難を生じた。
 当時の作付状況と、特に重点をおいていた、みの早生大根の状況を資料によって検討してみる。
 たばこは昭和二九年にまず二三○町歩の作付けが専売公社から許可され、父二峰村と川瀬村が同時に耕作を始め、乳牛は二八年にまず二〇頭を導入した。
 このような動きは、郡内の各町村に広がっていったが、みの早生大根は、大野ヶ原開拓地が量産に入ったため押され、一方、久万地区での生産は、連作による病虫害の影響や、気象条件の影響などから、生産は頭うちとなり、二八年につけ物工場を閉鎖せざるを得なくなった。
 酪農も昭和三八年には一三〇頭を数えたが、豪雪による被害と経営不振から、三九年末にはほとんどが壊滅する結果となった。
 ともあれ、戦後の食糧危機を脱した高冷地帯の農業生産が、さまざまな屈折を経て、流通市場と直結した農業へと転換していったが、久万地方では、この動きが一つの導火線となって進展していったのである。
 第二次世界大戦後の混乱期から安定期へ、更に高度経済成長期、解放経済体制へと移行していったこの二〇年間の流れは、農業生産の内部にも間断なきしげきと、問題をなげかけているが、それらの動きが直接生産作物の変化にどう影響しているか。これについては、昭和二五年から始まった農林業センサスの統計資料を検討するとよいだろう。

畑野川地区における主要出荷野菜の作付面積の推移

畑野川地区における主要出荷野菜の作付面積の推移


畑野川農協における年次別みのわせだいこん取扱量

畑野川農協における年次別みのわせだいこん取扱量


久万町農業生産物作付け面積(農林業センナス)

久万町農業生産物作付け面積(農林業センナス)


久万町全域(農林業センナス)

久万町全域(農林業センナス)