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久万町誌

3 三 椏

 ミツマタの植栽について、毎日新聞掲載明治百年より引用すると、伊予製紙発祥の地は大洲・宇和島地方で、既に大宝元年(七〇一)制定の大宝律令に、伊予の庸(用いる)は紙と記されている。宇摩地方は江戸時代宝暦年間(一七五一年ごろ)豊富な水と自生するコウゾでだれかが紙を、「スキ」はじめたのが起こりと伝えられる。
 当時各藩は競って紙の専売制をしき、利潤の大半を吸い上げるきびしい統制をとった。
 松山藩では、久万山の農民三〇〇〇人が藩の紙方新法に反対して大洲領に逃散する事件も起きた。
 これによると、旧大洲藩に属していた父二峰などは早くからミツマタの植栽がなされていたのではないかと考えられる。当地方に本格的栽培が奨励されたのは明治二〇年からであり、主に父二峰地区は、黒皮、直瀬地区は白皮が生産されていた。
 ミツマタは、植付後三年目から生育のよいものを切り取り、収穫時期は秋の落葉より翌年萌芽までの間で、刈り取られたミツマタは、周囲三尺余の大きさに束ね桶に入れてむす。二時間内外で取り出して皮をはぐ。これを生皮といい、乾燥したものが黒皮である。黒皮の表皮を削り取ったものが白皮である。ミツマタは楮とともに我が国独特の製紙原料で、その繊維は楮にくらべ短いが、繊細で光沢があり、局納ミツマタとしての造幣局用と、一般需用とに分けられている。
 ミツマタの販売については、製紙会社より地方の仲買人に需用確保を依頼、更に仲買人は買子を雇い生産者より買い取りを行っていた。
 また、造幣局に納入されるミツマタも指定業者において納入されており、農家手取りは仲買人の利潤より少なかった。そこで、生産者は、直接納入を要望した。昭和八年、造幣局購入の紙幣原料として、局納ミツマタの制度が行われるようになり、農家手取りもふえたのである。現在は植林熱の高まりにより植栽は漸次減り、残り株の萌芽による一部生産しか見られない。
 明治二二年 白皮ミツマタ 一○貫当たり価格  一円
   三六年   〃       〃      二円三三銭
   四三年   〃       〃      六円
 昭和二八年   〃       〃      一万三千円
   三〇年   〃       〃      五千円

みつまた生産量(久万町)

みつまた生産量(久万町)