データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

久万町誌

1 牛

 ア 和牛(黒毛和種)
 久万町の和牛飼育頭数は、昭和二九年が最高で約一三〇〇頭、農家一・五戸に一頭の割合で飼育されていたが、時代の変遷によって漸減の傾向を示しはじめ、一〇年後の三九年には半数に近い七四〇頭になっている。
 これは、その時代によって、牛の農家に果たす役割が変っているからである。
 農家の飼育目的は、時代によってちがい、明治の中ごろまでは農耕に使役することと、厩肥を取って作物の肥料にすること以外には用途を知らなかったが、明治の中期以後は肉用としても考えられるようになった。
 肉の需要と、その経済性は高く、特に昭和三〇年ごろからは、農耕機具等の普及によって役牛としての意味がなくなり、肉用牛として考えられるようになった。
 久万町では、いつごろから黒牛が飼育され、どういう形で現在に至ったかについては、「久万山手鑑」の記録によると、寛保元年(一七四一)の久万地方の牛馬の飼育数、東明神牛一一頭・馬一三〇頭・西明神牛八頭・馬四三頭・入野牛四頭・馬二五頭・久万町村牛四頭・馬六六頭・野尻牛六頭・馬三〇頭・下畑野川牛二〇頭・馬五五頭・上畑野川牛一五頭・馬五〇頭・直瀬牛五八頭・馬九二頭(下野尻、旧父二峰は大洲藩のため資料なし)となっているように、この時代は、牛が少なく馬が主であり、農耕・交通・運輸・全般に主要な役割を果たしていた。
 その後において、徐々に牛が飼育されるようになり、農耕になくてはならないものになっていったが、数はなかなかふえなかったようである。それは牛の繁殖率が低く、牛の絶対数が少ない上に、牛を買うだけの経済的ゆとりがなかったこと、農家の中にも格差があって、本門といわれる家ではいつでも買うことができたが、新門とか無縁とかいわれる農家では、勝手に買い入れることはできなかったようである。
 また、牛は一切肉用に使用せず、もし殺生をした者は神の怒りにふれるとおそれられ、村人から、「のけ者」にされる風習が明治の初期まで続いていた。これは、宗教的なものと江戸時代の「畜牛殺生禁止令」が尾を引いていたようである。
 しかし、日清戦争をさかいに、牛はいくらでも手に入るようになり、あわせて道路の開通などから交通輸送は駄載から車両に移り、久万、明神、菅生では牛車を使用する者もできてきた。
 明治三八年ごろ、日露戦争から帰った人たちによって、牛肉が美味であることを教えられ、役肉両用に飼育されるようになった。
 明治四三年に作られた上浮穴郡の郷土誌の中に、父二峰村の家畜数が記されているが、その中に牛一三〇頭、馬一五三頭、牛車一〇台とある。また、明神村では牛八五頭、馬一一八頭、預かり牛一一〇頭とあるように農耕運搬、肉用として利用され、農家の副収入の役割を大きく果たすようになった。
 大正二年には、上浮穴郡畜産組合が設立され、優良品種の導入、畜舎の改良、牛の去勢等がはじめられた。入手も、従来家畜商人の手によって行われていた庭先取り引きから、市場取引きに変わっていった。
 久万町で去勢が行われるようになったのは大正三年で、当時の畜産技師門田文二郎によって始められた。また下直瀬には、面河・川瀬・仕七川・弘形の四か村によって雇い入れられていた畜産技師の駐在所が昭和二〇年まであり、その当時の安部久一技師によって始められた焼付殺菌法は農家の人たちによろこばれた。
 去勢は雄を中性化させることであるが、このことによって、野生化をふせぎ飼育をしやすくする上に、肉質をよくすることができるので、種牛以外は、ほとんど生後一年から二年の間に行われるようになった。
 大正七年には、政府が第一回の有畜農家を奨励したけれども、牛馬一頭ずつを飼育する農家はまだまだ少なく、いずれか一頭を飼育する農家が多かった。
 この当時の牛馬の価格は記録にないので正確ではないが、小牛が米五~六俵くらいだったといわれている。
 昭和七年ごろ、第二回の有畜農家奨励が行われたが、じゅうぶんに目的を達することができなかった。昭和一六年第二次世界大戦が起こり、農家経営の中心的な人々が参戦することによって、牛を手ばなす農家が多くなってきた。
 終戦後、食糧不足に加えて、牛は占領軍に没収されるとのデマもとび密殺をほしいままにしたため飼育数は激減した。
 昭和二三年ごろから、新しく兼業農家がふえはじめ、食糧増産に合わせて役肉牛が必要になり、高知県・広島県及び県内の越智郡あたりからたくさんの和牛が導入されるようになった。昭和二五年には、三度有畜農家を奨励して国も県も力を入れはじめ、農協が中心となって資金制度をつくり、久万町の農家も水田が一反(一○㌃)以上の農家はほとんど飼育するようになった。
 昭和二九年、戦前戦後を通じて最高の一三〇〇頭を記録し、農業経営上なくてはならないものになっていった。
 その後、時代の進展にともない、農耕、運搬の機械化と化学肥料の発達は、牛の飼育目的を役用から肉食用へとかえていった。
 物価の上昇に伴い、昭和三四年ごろに肉牛の上物で一○万円台となり、農協も積極的に肉牛肥育を各農家に奨励し、畑野川農協では短期若齢肥育を指導、資金や素牛購入、販売まで一手に行い、一~二頭肥育から多頭肥育、戦業化まで指導をするようになった。
 また、畜産グループをつくり、技術の研究、飼料の共同購入等、専業化して経営が成り立つかどうか等を真剣に研究し、昭和三五年ごろから多頭飼育が試みられ、少ない人で五・六頭、多い人で一五~六頭を飼育する農家も生まれた。
 肉質も久万山牛はよく、「松坂牛」におとらないと折紙がつけられ、昭和四二年には、上物が三〇万円から四〇万円を越える牛も出た。しかし、久万町全体の飼育頭数は六七一頭と少なくなっている。
 預 り 牛 預り牛とは大正の初期をピークとして終戦まであり、二つの形があった。その一つの里牛は、温泉郡や松山の農家から農閑期だけあずかって飼育する方法で、里の田植えあとから麦の蒔付け前までを夏牛として預かり、麦の蒔付けのあとより翌年の田植え前までを冬牛として預かっていた。
 この牛の受け渡しは、両方の農家と農家の手によって行われ、三坂峠が交換場所となって、昭和初期まで続いていたが、その後は、野尻市が利用されるようになった。
 この里牛のはじまりは明神村で、明治四三年には一一〇頭の里牛があったと記されている。その後、久万、川瀬、父二峰にも広まっていった。一方では、久万の牛も農繁期だけは貸し出して、温泉郡地方の農耕に使役させていたが、数の上ではわずかであった。
 預かり牛は、大きな家畜商や精肉業者が農家へ牛を預けて、歩分けで飼育させることで、町外の業者が一〇〇頭ぐらいを明神・久万・父二峰・直瀬あたりに預け、町内の業者数名は、一〇〇頭あまりを野尻・畑野川・久万・直瀬等に預けて飼育させていた。利益は山分け、又は六分を飼育農家、四分を預け主が取るというしくみであった。預け主にとっては、かっこうの利殖法でもあった。
 イ 乳 牛
 昭和四年の農業統計調査によると、久万町に二頭の乳牛が飼育され、年間の搾乳量、一二石(約二一・六㌔㍑)、価格は一石、一〇〇円とある。しかし、酪農としては、昭和二七年、畑野川農協が新農村建設の一手がかりとして乳牛を導入したのが初めてで、同二八年には二〇頭の乳牛が飼育されるようになった。
 そうして、この酪農を「もうかる農業」として成長させるために、技術指導や研究がかさねられた。その結果畜舎の改良やサイロなども設置されるようになった。
 畑地に飼料作物を作ったり、上浮穴の特産ともいわれるトウモロコシや青刈大豆などを利用したりすることによって、自給飼料四・購入飼料六の目算が立った。このように飼料が豊富なのと、夏は涼しいなどの条件に恵まれて、一頭飼育から多頭飼育化へと、畑地の広い開拓地などを中心に拡大していった。
 酪農組合も結成され、上野尻に牛乳加工場が設置されて、郡内の生乳は全部集荷・加工されるようになった。
 同三五年には、川瀬に九八頭・明神一四頭・父二峰一五頭・小田町八二頭となり、上浮穴郡に二〇〇頭にあまる乳牛が飼育されだした。
 しかし二〇〇頭の乳牛は、郡内に散在していることや道路の不整備などによる輸送上の問題、過剰設備投資、親牛購入価格の昂騰、自給飼料と濃厚飼料のバランスのくずれなどによって、乳量と乳質の問題も表われ、前途に多難を思わせ、挫折する農家も出て足なみはくずれだした。  
 それに加えて、昭和三八年の豪雪は酪農に見切りをつけるきっかけとなってしまった。
 豪雪は、二か月あまりも交通をとだえさし、搾乳はしたものの、出荷する車が使用できないため、おいこや、ソリを使って輸送したが、これには限度があり、生乳処理にいきづまってしまった。
 そうしているうちに飼料も底をつき、親牛の生命さえあやぶまれる状態を招いた。
 このようなことは、農家の酪農意欲を完全になくしてしまった。
 購入する時は高く出さなければならなかった素牛も、手ばなす時には買いたたかれ、その上設備費なども加わって赤字だけがのこった農家も多かった。
 久万町では、一時一三○頭ちかくにもなっていたものが、四〇年には八頭となり、四二年の末には、完全に乳牛の姿が消えてしまった。
 ウ アベ牛(褐色和種)
 アベ牛は原産が朝鮮であるため、朝鮮牛とも呼ばれている。久万町(上浮穴と考えてよい)では、高知県から改良された品種が導入されたために土佐牛とも呼んでいる。
 アベ牛には二種類あって同じごろ導入されたようであるが、久万町で飼育されだした時期は明らかでない。ただ、高知県で改良されだした時期が大正の中ごろであるところから、大正の末から昭和のはじめごろと推定される。
 朝鮮牛は数も少なく、終戦後間もなく姿を消してしまったが、広島県や松山で牛車に使役していたものを、明神、久万の人たちがつれて帰り使役したのが始まりである。この朝鮮牛は、気性が荒く野生化しやすく、人間に危害を加えることがあったため、だれでもが使いこなすことができず、頭数は限られていた。
 この朝鮮牛は、力が駄馬の二倍以上、体重も六〇〇キロ以上あったので久万と明神では牛車に使い、松山通いをしていた。足はおそいが力が強いので、たくさんの輸送ができた上に荷いたみもなかった。
 父二峰村の明治四三年調べの郷土誌によると牛車一〇台とあるが、この当時は黒牛であり、その後においてアベ牛に変わったものと思われる。
 この朝鮮牛は、地引き(べた引き)という力法で大きな木材搬出作業等に使われていた。この地引きとは駄載することのできない重いものや、長いものを車輌の使用できる所まで搬出することで、悪路でも急傾斜地でも行われ、村で家を建築する時など、なくてはならないものとして重宝がられた。しかし、数の上では、わずかに二、三頭しか地域の中にいなかった。肉質はわるい。
 高知県から入った土佐牛は、かるい運搬作業や農耕作業に使用できる上に、肥育が早く、肉質も黒牛よりややおちる程度で、肉用と作業用との両用に普及していった。
 土佐牛についで、熊本牛(肥後牛)がはいってきた。褐色がうすく白味がかっていて肥育用として適している。また、広島から入った安芸朝といって黒味がかったものがいるが、いずれも肉用牛としている。昭和二九年の調査では、久万地区和牛四二一頭の内、アベ牛七四頭、川瀬地区三一五頭の内一一二頭、父二峰地区二四〇頭の内三一頭となっているので、和牛一〇頭の内二頭がアベ牛ということになる。
 昭和三四年には、和牛約一〇〇〇頭の内、褐色牛一六〇頭、昭和四二年には約八〇〇頭の内一〇〇頭くらいで、全部肉用牛である。
 昭和四四年以降の肉用牛飼育頭数の推移を愛媛県統計資料で見ると表のとおりである。
 牛が、農耕や運搬の役目を終った昭和四〇年代半ばからは、農家の一頭飼いが減って、家畜を飼育することを業とする家畜農家に移っていった。
 年々減少する肉用牛の生産費を増やし、肉用資源の確保を図り、高齢者の生きがい対策も兼ねて「高齢者生きがい対策肉牛飼育事業」が昭和五八年からスタートし、久万町では、昭和五八年に県から二〇〇万円の貸付金と町の一一〇万円を継ぎ足し、三一○万円の基金を積み立て、生きがい対策牛を導入して、六〇歳以上の意欲のある高齢者に貸し付けた。
 生きがい対策牛は、広島、鳥根方面から子牛を購人して貸し付けるものであり、子牛相場によって、貸付牛の頭数に影響することになったが、初年度から八頭を貸し付けてきた。貸付期間は原則二年間、無利子貸付けとしており、高齢者は、販売による間差利益を受け取る仕組みである。
 この制度は希望者の増加により昭和六一年から町の継ぎ足し金を二一〇万円とし、合計四一〇万円の基金によって一一頭の貸付けを行っている。

上浮穴郡、久万町の肉用牛

上浮穴郡、久万町の肉用牛