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久万町誌

3 野尻市

 野尻市といえば、ひところ関西一をほこり、春の野上げ市と秋の大市は、出頭数一、二〇〇頭をかぞえる盛況であった。この大市には、近県の業者はもとより、遠くは、大阪京都より精肉業者が、広島からは、仔牛業者がおとずれ、久万の町は人と牛馬で戦場のような数日が続いたものである。この人出をあてこんで、見世物や香具師が店を張り、地元の者は、それぞれ、家は宿屋に、耕地は牛馬のつなぎ場にかえ、草を刈ってハミ(飼料)を売る者、ワラぐつを作って売るなどして農家の副収入とした。野尻の発展も市場を中心になされたといえる。
 では、このような家畜市場がいつごろから、どういう形でつくられていったかということについて、古い人たちの話や文献を総合すると次のようである。
 野尻市場は、高野幸治の努力によって開設され現在に至っているが、開設当時の享保年間から明治の中ごろまでは馬ばかりで、その馬も野間馬(乃万馬)といって五尺(一㍍五〇㌢)たらずの小さい馬であった。当時は、農耕に利用する者は少なく、馬をつかって職業とする人たちばかりであったから、その売買にも底知れないきびしさがあったようである。
 そうした所から、馬の売買、交換を職業とする博労(馬喰または馬苦労とも書く)なる者がおり、一定の区域内(繩張り)をほとんど自由にしていた。そんなところから、多くの中から自由に選べる「市」というものに人気があったのである。だが最初は、博労仲間と、馬功者、といわれる者だけの「市」にすぎず、一般の者は、なかなか利用することができなかった。
 それでも、回を重ねるごとに利用者はまし、一〇年後にして二〇〇頭にあまる馬が集まるようになった。しかし、施設もなく場所もせまいために、三島神社の参道とその両がわの耕地で「市」が行われていた。
 「市」といっても、果物市場や魚市場などにみられる合理的な方法ではなく、一頭の馬を「あきない」するにも数人の「ばんぞう人」(仲介人)が仲にはいり、横目あきないがなされていた。
 一部をのぞいてはいまでもそうであるが、一頭の商売が成立すると大変なさわぎようで「えびすもの」だといって酒がつきものであった。
 馬市が全盛をなしたのは、明治の中ごろであった。
 搬出、輸送、交通の一切が駄載から車輛に変わりはじめ、日清日露の戦争はこれに拍車をかけ、道路の開通とも相まって馬の用途がうすれた。それに代わって黒牛が導入されはじめ、多く農耕に使用されるようになり、明治末期には牛が大半をしめ、大正二年には、上浮穴郡畜産組合の結成、続いて家畜商組合の発足、大正七年には、政府が第一回目の有畜農家の奨励で、ほとんどの農家が一頭の牛を飼育するようになり、市場の主役は、完全に馬から牛に変わった。
 商談は、博労の仲介で「庭先取引き」が行われていたが、市場取引きの有利性がみとめられ、農家の人たちも年を追うごとに出かけるようになり、年一回の牛市だけではさばききれず、大正の末には、春の野上げ市が生まれた。会期も、三日から五日間くらい続き、引出し頭数は四〇〇頭をかぞえ、牛市を目当てに香具師や商人も加わり、松山、今治の大きな精肉業者が多くの引き子をつれてやってきた。
 引き子とは、車輪が利用されだすまで、数十里の道を、牛馬を追って輸送する人夫のことである。それも、どんな牛馬でも手綱一本で数頭引くことのできる人のことである。
 農家の人たちも牛を引き出すためには、朝の二時か三時ごろから腰に弁当とワラジを付け、長い道を引き出し野尻市に集まった。丹精こめて育てた牛の売買が成立すると、互いに手打ちをして一杯の酒がくみかわされた。自分の牛に別れをつげればまた新しい牛を求める、こうして、酒と、取引きのすきな者は、何度も交換、売買をし、今度はよい牛が手に入ったと喜びいさんでつれて帰り、よく見れば、自分のつれていった元の牛であったという笑い話のような事実もあるくらいである。
 このように市の盛況をみるようになると、どうしても市場の場所と施設が必要になり、現在の場所に事務所やつなぎ場のさくが作られた。
 昭和一八年、第二次世界大戦がはげしくなったため、やむなく閉鎖、市場は食糧増産のためイモ畑となった。
 そうして終戦、そのどさくさに牛の数は半減したが、二三年六月に再び開設した。しかし、一五頭だけの出頭数で淋しいかぎりであった。しかし、二四年一一月の大市には、三〇〇頭と盛況をとりもどした。
 それから一〇年のちの三四年の春の野上げ市には、約六〇〇頭、同年秋の大市には、一二〇〇頭、この年を最高にだんだん下火になっていくが、これには時代の流れと、畜産組合が経済連と合併、農協が中心となって、肥育牛を奨励し、仲介業者の手に渡らず、農家が直接、割り入れを行うようになるとともに、農作業に利用されていた牛は、機械に変り、牛を手ばなす農家が多くなってきたためである。
 それでも戦後は、春秋の大市のほかに毎月二のつく日が定期の市とし開設されている。
 このほか、野尻市を見本として各村、各地においても秋には一回、畜産品評会を開いていた。しかし、四〇年ごろから開くほどの牛がいなくなりだんだんと中止する所ができてきた。
 現在の野尻市場の中央には、開祖者高野幸治の頌徳碑が建てられている。