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久万町誌

3 開拓営農の移り変わり

 開拓地に対しては、適地適生産及び開拓地の実態に即して、合理的な生活に立脚した綜合農業経営を行わせて、食糧の増産を積極的に推進し、開拓農家の自給態勢の確立をはかることが目的であった。開放未墾地を基礎として土地の最も高い利用形態を具備する自作農家を建設して、土地の利用増進をはかり、自作農家があくまで農家として発展し、安定した文化生活を営まねばならないのであるから、個々の開拓地がその立地条件に立脚した営農類型を考えなければならない。しかし、国・県などの樹立計画に対して当町の計画はほど遠く、主として、役牛・陸稲・豆類・いも類・麦・トウモロコシなどの畑作であった。現金取得としては、主に木炭生活に打ち込み、生活の支えとしていたが、原木の減少と、食糧事情の好転に伴い、ますます既存農家との所得格差は大きくなり、離農に傾く者もでてきて、昭和二八~三〇年ごろがこの大きな変革期であった。
 また、無計画による過剰入植のため(芋坂・紅吉)政府においては、現に営農不振であり、今後も営農振興が困難であると認められる開拓者で、離農のための移転を希望しながら手持現金がないため移転できない者に対し、離農の助成措置を講ずることにより、その移転の円滑化をはかるため補助金を交付した。また、海外移住奨励などもあわせて促進され、久万町においても八名の移住者を送り出している。
 残留者においても種々経営形態をかえてみたが、これといったきめ手もなく、自立経営のきざしは、はかばかしくなかった。日本経済の発展に伴う土木事業開発は、久万町にも浸透してきた。日雇労働者として労働力を投入し、開拓事業は従属の形となるなかで、タバコ耕作が取り入れられるようになり、生活・経営ともに安定をみる開拓者が現れ、既存農家の所得をはるかにこえる者もできてきて、開拓者としての地位も確立されるようになった。

組合別1戸当たり融資額(昭和30年)

組合別1戸当たり融資額(昭和30年)


組合別1戸当たり経営規模及び農業収入

組合別1戸当たり経営規模及び農業収入