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久万町誌

1 農作物災害

 久万町の農業は、米・麦・雑殼生産から始まり、三椏・楮・粟・茶・製炭・畜産・養蚕・養蜂・椎茸等、その時代の要求に応じ、繁栄又は衰退しているものがある。
 最近では、たばこ、野菜等の園芸作物が盛んになり、ごく最近では、出稼ぎ農家(第二種兼業)が急増し、農家形態がかなり変わってきた。このような変貌、沿革の中で、農業災害が全くなかったということではないが、久万町の災害についての古い資料は見当たらないため、古いことは、計数的に知ることができない。「松山叢談」、による、上浮穴郡の農業災害を表に記して参考にする程度である。昭和二三年以後については、統計調査事務所の資料により久万町の水稲、裸麦の作況は明確である。
 農業共済事業についてみると、昭和二二年一二月、農業災害補償法ができ、この法律に基づき、一行政区一組合の建て前から、昭和二四年に、久万町・川瀬村・父二峰村と、それぞれ三つの農業共済組合の設立となり、以来共済(保険)事業が行われてきた。
 ひとことでいえば保険と補償をひとつにした制度である。その後、昭和三四年には町村の合併が行われ、これにともない前記三つの農業共済組合が、昭和三五年二月一日に合併し、久万町農業共済組合として発足した。しかし、この組合は、営利事業が行えないので、組合運営困難な面があり、むしろ、町が行政の中で共済事業を行った方が、経費面、農家の信頼度の点からいって、より健全運営がなされるであろう観点から、昭和三八年四月一日、農業共済事業は町移譲となり現在に至っている。

徳川時代農業災害年表(「松山叢書」による)

徳川時代農業災害年表(「松山叢書」による)