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久万町誌

7 桃太郎トマト

 昭和四五年、米作の減反政策が始まり、その転換作物としてトマトの栽培が始まった。トマトはもともと連作を嫌う作物だけに、土作りにはなみなみならぬ工夫と努力が重ねられた。化学肥料を使って栽培していた先進地が、久万のトマトは一〇年もすれば駄目になるといっていた。
 一○年を経過したころには、京阪神の市場で久万の桃太郎トマトは、高値で取り引きされるまでになった。一五年を経た昭和六〇年には売上げ額が五億円を突破した。平成元年には七億円となった。このむきだと一〇億円に達するのも夢ではない。
 それも生産者の努力と研鑚の賜である。バーク堆肥と上直瀬にある肉牛繁殖センターの厩肥を利用しての土作り、更には生産技術の向上が、二〇年に近くなるトマト生産に、大きな成果を上げている。
 国からの産地指定を受け、菅生にあるトマト選果場は、シーズン中、数十人のアルバイトを雇ってのフル操業と、うれしい悲鳴を上げるまでになっている。