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久万町誌

二 明治以後

 慶応三年(一八六七)一〇月一四日、徳川一五代将軍慶喜が大政奉還を奏請し、翌日勅許された。鎌倉に武家政治がはじまってから六二八年、江戸幕府創設から二六五年であった。
 明治新政府は、慶応四年(一八六八)三月一四日には、「五ヵ条の御誓文」を発布し、天皇親政を国の内外に示し、旧弊を打破して人心を一新し、諸外国との親交を密にするとともに、欧米の新しい文化をとりいれ、公議世論を尊重して、これを国政の大道とすることを明らかにした。ついで、同年七月一七日、江戸を東京と改称し、ここを首都に定めた。更に、同年九月八日には、年号を明治と改元して一世一元制とした。
 明治二年六月一七日の版籍奉還についで、明治四年七月一四日には廃藩置県が行われた。これによって、地方行政区画は府、県単位として統合せられ、全国に三府三〇二県がおかれた。こうして、明治維新の大業は王政復古・版籍奉還・廃藩置県という三段階で三年九か月を費やして一応終止符を打った。
 これによって、伊予国内は、旧八藩の領域そのままを県とし、松山・大洲・宇和島・今治・西条・吉田・新谷・小松の八県となった。
 したがって、これまで松山藩領であった東明神村・西明神村・入野村・久万町村・菅生村・上野尻村・上畑野川村・下畑野川村・直瀬村は松山県にはいり、大洲藩領であった二名村、父野川村、露峰村、下野尻村は大洲県に属した。
 明治二年の版籍奉還によって、明治政府は全国で六万五七○○余、伊予国で一〇〇〇余りあった藩政時代からの村を、そのまま引きついだ。これらの村のほとんどが、六〇から七〇戸くらいの小村であったが、藩政の下では、このくらいの小村が支配も徹底するし、すべてにつごうがよかったのである。
 村の内部では、一応、自治的な形がとられ、村の代表者として庄屋がおり、代官の下で行政を扱っていた。村民の生活は自給自足的で経済的にも社会的にも強く結ばれていた。したがって他村に対する排他的な感情も強く、特に伊予国では八藩、天領(幕府直轄地)と小分割されていたため、その傾向ははげしかったようである。
 明治二年、版籍奉還をしたとき、旧藩主は、封建領主としての権力を失い、単なる新政府の役人となり、旧領地の藩知事としてその任にあたった。しかし、知事の下で藩治にたずさわった役人は、ほとんどが旧藩士であったから、新政府になったとはいえ、末端の地方行政組織は旧藩時代のままで、昔ながらの因習は依然として残っていた。廃藩置県は、このような藩政時代の残滓を一掃し、旧藩領を中央政府の行政下に直結させる目的をもって行われた。しかし、廃藩置県によって、明治新政府の意図した中間機構はある程度整ったものの、末端行政組織には手をつけることができなかった。
 この改制は、ただ藩を県と改めただけで、県の規模に大小がありすぎたうえに、県境も複雑に入りくんでいて行政上いちじるしい不便があった。
 そこで、明治四年一一月一五日、全国を三府七二県に整理統合した。このとき伊予八県は、松山県と宇和島県の二県に統合されたか、更に明治五年二月五日、松山県を石鉄県と改称、同年六月二三日、宇和島県を神山県と改称し、県庁を松山と宇和島においた。
 このような処置は、いずれも住民の旧藩意識を取り除く意味があったと考えられる。
 参考までに愛媛県の変遷を図示すると、愛媛県変遷図のとおりである。
 明治政府は、明治五年六月一三日にこれまでの町村を行政区画とすることをやめて、新たに大小区制を定めた。これによると石鉄県下を一八大区二一七小区、神山県下を一一大区七〇小区に分けている。石鉄県下の上浮穴分をあげると、次のとおりである。
      石鉄県大・小区行政区画表
  第一七大区(浮穴郡久万山・二四か村三、八六七戸)
   ○第 一小区(二二八戸) 北番村の内 直瀬分
    第 二小区(二五六戸) 北番村の内 杣野分
    第 三小区(二二二戸) 北番村の内 大味川分
    第 四小区(三七一戸) 東川村・七鳥村・仕出村
    第 五小区(三七二戸) 久主村・黒藤川村
    第 六小区(二六八戸) 西谷村
    第 七小区(二二七戸) 柳井川村
    第 八小区(二四七戸) 日野浦村・沢農村
    第 九小区(三三三戸) 大川村・有枝村・黒岩村
   ○第一〇小区(二二二戸) 畑野川村
   ○第一一小区(四二二戸) 菅生村・野尻村・久万町村
   ○第一二小区(三六四戸) 入野村・西明神村・東明神村
    第一三小区(三三五区) 窪野村・久谷村
 このように、浮穴郡の内、旧松山藩領久万山全域が一七大区に含められ、その下を一三小区に分けている。また、神山県に属していた旧大洲藩領であった父野川村・二名村・露峰村・野尻村についてみると、
      神山県区画並びに小区役貝名簿の内
  第一〇大区
    第五小区 父野川・露峰・下野尻・二名・臼杵・多居谷・猿谷
    (計 七五六戸、戸長 大久保高堅・副 大野直栄・城戸直衄)
となっている。
 この大小区制の実施で行政区としての町や村の名称は消えて、末端行政単位は以後しばらくは第何小区と呼ばれた。一小区はだいたい三〇〇戸を基準として、これに戸長及び副戸長各一人を置くことを原則とし、場合によっては一〇〇戸を単位として、副戸長一人を増した。大区は、後に郡に移行していくもので区長がその長であった。これらの戸長は、はじめのころは旧庄屋が任ぜられることが多かった。明治一一年大小区制が廃止され、町村名が復活したときも、戸長の名称は残って公選制となった。明治一七年七月に戸長は知事の任命となり、明治二二年市町村制実施まで続いた。
 明治六年二月二〇日、全国七二県がほぼ現行の三府四二県に改められた。このとき、愛媛県では石鉄、神山の二県が廃止されて一行政区となり、ここに愛媛県が誕生し、県庁の所在地を松山に定めた。廃藩置県から一年六か月、松山、宇和島二県がおかれてから一年二か月、松山県が石鉄県となってから一か年、宇和島県が神山県に改められてから八か月
後のことである。
 明治七年五月二〇日、県では懸案となっていた管内行政区画の改編を行い、県内を従来の二九大区、二八七小区から一四大区、三一一小区とした。これによって旧藩時代の旧習を引き継いだばらばらの行政区が整理統合した。
 当時、県内には一〇〇〇余か村があり、だいたい三村をもって一小区を設けたのである。
 浮穴郡のうち、久万山地域は従来の一七大区から第七大区となり、その下を八小区に分けられた。また、この区画改編でいままで神山県に属していた父野川村・二名村・露峰村・下野尻村も第七大区に編入された。いままで同じ一七大区にあった久谷・窪野の二村はこの時から久万山分から分離し、六大区に含められた。
 区画改編による第七大区小区画分は次のとおりである。(会所、久万町村)
  第一小区 東明神村・西明神村・入野村・久万町村・菅生村・野尻村
  第二小区 畑野川村・北番村の内直瀬分
  第三小区 北番村の内杣野分・大味川分
  第四小区 東川村・七鳥村・仕出村
  第五小区 沢渡村・黒藤川村・久主村
  第六小区 西谷村・柳井川村
  第七小区 日野浦村・黒岩村・有枝村・大川村
  第八小区 露峰村・父野川村・二名村・臼杵村
 明治九年八月二一日、府県の統廃合が行われ、その結果香川県が廃止になり、愛媛県に併合された。当時、全国は三府三五県に整理統合されたが、この処置は当時の交通・通信その他の諸事情から問題が多く、明治二一年一二月三日、再び分離して、愛媛、香川の二県となった。
 この府県統合により、県では同年九月一四日、大小区の名称替えが行われた。旧香川県を七大区、五六小区、旧愛媛県を一四大区、三一一小区、合計二一大区、三六七小区に編成した。旧愛媛県内は八大区から二四大区になり、これまでの第七大区であった浮穴郡久万山は、第一四大区となったが、大区の番号が変わっただけで小区に変更はなかった。
 明治五年、七年、九年の大小区制の推移を図示すると「明治五年~一一年までの大小区制による区画図」のとおりである。
 明治一一年七月二二日に、我が国地方自治制度の礎石として両期的意味を持つ「郡区町村編成法」が公布された。これによって大小区制を廃止し、従来の町村が行政区画として復活した。戸長も民選となって本来の町村代表者としての姿にかえった。
 この結果、旧来から親しまれてきた浮穴郡は、明治一三年五月、上浮穴郡四四か村と、下浮穴郡六〇か村に二分されて、県内は一八郡、一一○八町村となり、一四部役所、五八〇の戸長役場がおかれた。
 上浮穴郡の郡役所は久万町村におかれ、当時は管轄戸長役場二八、村数四四、管内戸数六三三四、人口二万九四一〇人で、大正一五年の廃止まで約五〇年間、県と市町村の中間的な地方自治団体として、一般に親しまれた。
 県では、明治一七年一二月二五日付で、
 「明治一八年一月一五日限り、従前の戸長役場を廃して、新たに町村戸長役場管轄の区域及び役場の位置を定める」布達を出したが、現在の久万町分については、次のように定められた。
 この処置は、町村行政制度上における領域編成上の画期的なもので、これがやがて市町村制実施の前提となった。
 明治二一年四月二五日、法律第一号をもって市制、町村制が公布せられ、翌二二年四月以後実施されることになった。明治政府の理想実現のためには、町村の自治こそ立憲政治の基盤であるとする政府が、国会開設に先だって実施した処置であり、明治初期以来幾多の変遷を経てきた自治体制の一応の完成であったとみるべきである。
 この市制、町村制によると、市町村とは「法律上一個人ト均ク権利ヲ有シ、義務ヲ負担シ、凡市町村ノ公共事務ハ官ノ監督ヲ受ケテ自ラ之ヲ処理スルモノトス」とあり、その成員を住民と公民に分け、市町村内に住居を持って生活を営むものを住民とし、住民中地租又は直接国税二円以上納めるものを公民として、市町村の選挙に参与させ、名誉職に任ぜられる権利とこれを負担する義務を与えている。
 新しい町村は、三〇〇戸から五〇〇戸ぐらいを標準とし、合併してできた町村には新しい名称をつけること。たとえば大町村に小町村を合併するときは大町村の名称を新町村の名称とし、ほとんど同じような小町村を合併するときは、各町村の旧名称を適当に取り入れる。合併町村の旧名称は大字名とするなど、町村のこれまでの習慣、民情を考慮し、決して無理な合併をしないようにという注意などが、二二年六月の内務大臣訓令の中に記されている。
 愛媛県においては、市制、町村制を明治二一年一二月五日から実施することとし、その前提として各部役所を通じて勧奨に手をつけた。明治二一年には全国で七〇、四三五町村あったものが、二二年一二月には三九市一三、三四七町村となった。愛媛県では二一年に松山を除いて八町一〇二一か村あったものが、一市一三町二八五村となって従来の約四分の一となった。
 これを現久万町分についてみると、旧各村別人口及戸数の表のとおりである。
 これにより、郡内の藩政時代から続いた四四の小村は一五の新しい村に統合された。歴史的な旧村名は、現在は大字名となって名残りをとどめている。また、従来の戸長制度は廃止されて新たに町村長、町村会議員が選出された。
 このとき、明神村と久万町村は相互に飛地を交換している。その記録によると、
  「明治二〇年一〇年一九日付久万町村と飛地及隣接錯雑地交換之儀に付
   西明神村外弐ヵ村戸長  山之内 誠一郎
   久万町村外参ヵ村戸長    田 中 知 徹
   願出、明治二三年町村制実施の際(明治二二年一一月一一日、愛媛県令第六四号組替の儀現今のとおり処分せられる。」
とあり、
   入野より久万町村へ
     田     三町一反一畝一九歩
     畑     二町三反一畝一八歩
     宅地      四反八畝六歩
     山林    二町二畝歩
     原野      七畝一一歩
     池       一畝参歩
     堤防      一畝一歩
     戸数    一九戸
   久万町村より入野へ
     田     五町四反九畝二七歩
     畑     五町五反七畝歩
     宅地        六畝一一歩
     原野      四反三畝一九歩
     池         六畝二一歩
がそれぞれ交換されている。
 明治二三年五月、郡制が公布され、同三〇年四月、施行された。これによって、県内各部の廃止が大規模に行われた。風早・和気・久米・下浮穴・野間・周布・桑村の七郡が廃され県内は一市、一二郡となった。
 明治三四年四月、久万町村が町制をしき、久万町となり、郡内は一町一四か村となった。
 当時の久万町は、人口一七九四人、戸数五三四であった。
 大正一三年一月三日、久万町と菅生村が合併し、人口三四五〇人、戸数七〇二戸になった。役場は久万町大字久万町字新町八六六番地、同八六七番地第一、同八六八番地第二に置かれ、旧菅生村は大字菅生となった。
 このとき、両町村の間にとりかわされた合併覚書は、次のようなものである。
     覚   書
  一、久万町並ニ菅生村ヲ廃シ、新ニ久万町ヲ置ク
  二、現在久万町ノ退隠料条例、退職給与金、死亡弔祭料及一時扶助料条例ハ新町ニ於テモ義務ヲ負フベク規定スルコト
  三、新町ニ於テ大字菅生ニ対シ、堰其他ノ費用トシテ一回限リ、金一、五〇〇円ヲ支払フモノトス
  四、大字菅生ニ属スル堰其他水利費ハ菅生ニ於テ便宜ノ取扱ヲ為シ、新町ノ共通経済トナサザルコト
  五、大字菅生村有林山林ノ地上権ニ属スル部分ハ、大字菅生ニ於テ処分シ大字菅生ノ負債ト相殺スルコト
  六、旧久万町採草地ハ旧慣行ヲ承認スルコト
  七、大字菅生ノ民債ハ新町二関係セザルモノトス
  八、新町設置施行期ハ大正一三年一月三日トス
                            以 上
当時の両町村の合併委員は、次のとおりであった。
  久万町長  高 橋 精一郎   菅生村長  高 井 寛 和
  委  員  二 宮 伊十郎   委  員  大 野 金 作
   〃    矢 内 省 吉     〃   西 森 虎 吉
   〃    宇都宮 音 吉     〃   秋 本 半次郎
   〃    高 橋 与七郎     〃   山 口 勘五郎
   〃    高 岡 貞一郎     〃   大 野 武 一
   〃    久 保 善 吉     〃   白 川 弥十郎
 大正一二年四月一日をもって郡制が廃止された。明治二三年五月、郡制が公布され、同三〇年に施行されるようになってから郡下各町村から郡会議員が選出され、郡長が自治体の運営にあたってきたが、実施以来三四年にして地方自治体としての郡制がなくなったわけである。
 ついで、大正一五年六月四日の勅令によって郡長以下の官吏がなくなり、郡役所が廃止された。その後、各町村事務を円滑に運営するため、県行政事務の一部を管掌する行政機関として、昭和一七年六月、上浮穴地方事務所が久万町におかれたが、これも昭和三五年に廃止され、新たに松山県事務所久万出張所が設置されて現在にいたっている。
 このように、明治維新以来西欧先進国にならって、立憲君主国として憲法が制定され、国内の諸制度も順次改革されていった。地方自治制度も整備されて日本は急速に近代的文明国家となった。
 しかし、富国強兵を国家目的とする政府の方針によって、年ごとに増大してきた軍備拡張、軍需産業の育成などによる国家財政の窮迫は、委任事務などの増大となって常に地方財政に圧迫を加えた。この間、地方自治権の若干の拡大など、制度の改正もいくらか行われたが、中央集権的自治制度の根本的立場は発足時のまま受けつがれてきた。
 昭和年間にはいってもその状態は続き、特に第二次世界大戦となって一層強化され、政府ー府県ー市町村ー町内ー隣組として、国家目的達成のために一貫した中央集権国家を形づくった。
 このように、国内がますます戦時体制化されていった昭和一八年九月一日、久万町と明神村が合併し、新たに久万町となった。これにより、久万町の人口は五一九七人、戸数一一九七戸となった。
 当時の久万町長井部栄基・明神村長宇都宮照蔵が、合併報告式にあたり関係方面に出した書簡に、
   「(前略)、時局ハ日一日ト重大化シ、外二於テハ戦局凄惨ノ度ヲ深メ、内ニ在リテハ一億国民ノ総カヲ結集シ、戦力増強二一入専念ノ秋、国家ノ根源タル町村自治行政ノ強化ハ尖モ緊急且ツ重大事ニテ、我両町村合併ノ急務タルヲ痛感シ、先般来合議調査ヲ進メ居リ候処、愈々爰ニ合併ヲ見ルニ至り候段、祝賀ノ至リニ存候。
  (後略)」
 とあるをみても両町村合併の時代的背景がうかがわれる。
 このころの郡内の動きをみると、昭和一八年四月、石山村が小田町村と合併、同じく四月、浮穴村を廃し、村内大字北平、川上地区を喜多郡河辺村に、大字小屋地区を東宇和郡惣川村に編入しており、昭和一八年で郡内は一町一〇か村となった。(昭和九年一月杣川村は面河村と改称している。)
 前述のように、我が国の地方制度は明治維新以来中央集権的な形で進められてきたが、終戦により大きく方向を転換した。
 昭和二二年四月一七日、地方自治法が公布され、昭和二一年一二月に公布された日本国憲法とともに、二二年五月から施行されて、民主的地方自治の方向に新しく動きだした。
 昭和二八年九月、第一六国会において「町村合併促進法」が成立、一○月一日から施行された。社会・経済・文化の発展、特に交通機関の急速な発達にともなって、住民の生活圏はますます拡大し、現在の町村の区画では小さすぎる。また、町村行政の内容として処理すべきことが多くなり、特に戦後の改革で急激に自治体事務が増加したため、今までの町村の規模や行政能力では処理しきれなくなった。これが、「町村合併促進法」の趣旨であるが、そのきっかけは、シャウプ勧告であった。
 昭和二四年に日本にきた、アメリカのシャウプ博士が
   「日本では地方自治を、もっと尊重する必要かある。市町村という住民に直結する地方公共団体は最も重要であるから、この際、国と地方団体かおこなっている仕事を再検討して市町村でやれる仕事はこれにまかせた方かよい。そのために市町村を、多くの仕事のできる能力のある団体に育てることが必要である。」
と、政府に勧告したのであった。
 政府は合併の主眼を、地方自治の基盤の強化と、行政の合理化、簡素化におき、新町村の基準を人口七〇〇〇人から八〇〇〇人とし、期間を昭和二八年一〇月から三一年九月三〇日までの三年間とし、町村数を約三分の一にへらす計画であった。
 この時、愛媛県の町村数は、二二八であったが、県はこのうち一七二町村を合併させる案をもっていた。同法による合併実施経過をみると、昭和二八年度二二、二九年度一〇七、三〇年度一〇、計一三九町村が合併している。
 このように、昭和二八年度、二九年度と順調に進んだが、三〇年度になると、だんだんむずかしいものが残り、合併達成もにぶくなってきたので、政府は、更に、昭和三一年三月「新市町村建設促進法」を公布し、認識を新たにして合併の気運をたかめた。
 これにより、昭和三一年度一二、三二年度一、三三年度八、三四年度三、三六年度一、三七年度一と、合計一六五町村が合併し、県内は一一市一一郡四三町二〇か村となった。
 上浮穴郡の状況をながめてみると、昭和三〇年三月、参川村・小田町村・田渡村が合併して小田町が誕生し、おなじく仕七川村・弘形村と中津村大字黒藤川・大字沢渡を合わせて美川村となり、中津村の残り大字中津を柳谷村に編入している。
 更に、昭和三四年三月三一日、久万町・川瀬村・父二峰村と美川村のうち大字七鳥五番耕地槙谷の区域が合併して、新しい久万町となり、藩政時代四四か村あった上浮穴郡は、二町三か村となった。
 久万町における合併経過は次のとおりであった。
 1 合併を必要とした理由
 久万町・川瀬村・父二峰村・美川村槙谷は、地理的人情風俗、生活環境、婚姻関係等社会的関連性が深く、また産業経済・商取引等、密接な関係をもつ地域である。このような地理的・社会的・経済的関連性をもつ四か町村の合併は当然であり、また合併することにより、規模の適正な自治体として行財政力を強化し、産業経済の拡充発展と住民の福祉増進に寄与するものである。
 2 合併に至るまでの経過の概要
 昭和二九年四月一七日、三か町村合併促進協議会を結成し、一般住民に対する趣旨の啓発につとめるとともに協議を進めたが、啓蒙に日時を要し、昭和三〇年三月、町村長及び議員の改選期に当たり、たまたま公職選挙法の特例等の公布もあり、「協議整わず早期合併困難」なる理由で、同年三月二〇日、協議会廃止のやむなきに至った。けれども、各町村が自主的に啓発につとめた結果、左記の経過によって、ついに所期の目的を達することができた。
 昭和三一年 八月二一日 町村合併促進法施行以来国・県の方針を尊重し、関係町村において隣接町村との大同団結の必要性を痛感して、三か町村長、議会議員の全体会議を開催する。
 昭和三一年一一月 七日 早期合併の必要性を痛感し、合併研究委員会を結成して、五分科会を設ける。
 昭和三一年一一月 八日 昭和三二年五月一〇日までの間において五分科会を二五回開催し、それぞれ各分野において研究につとめ、その間世論の調整と趣旨の普及につとめた。
 昭和三二年 五月一〇日 全体会議を開催し、各分科会の研究結果を報告する。
 昭和三二年 五月一一日 先進地小田町を視察する。
 昭和三二年 六月一〇日 全体会議を開催し、財産区設定問題等が提出され協議したが結論に至らず、その問題処理のため、財産処理委員会を設ける。
 昭和三二年 七月一〇日 昭和三三年一一月七日までの間において財産処理問題解決のため、財産処理委員会を九回開催し、各町村無条件の線にて全体会議にはかる旨決定する。
 昭和三三年一一月一五日 財産処理の解決に伴い全体会議を開催、処理について報告し、満場一致で承認され、合併することを申し合わせた。各分科会の要望事項の調整のため、分科会を再開することを決定する。
 昭和三三年一一月二七日 全体会議を開催し、美川村槙谷地区の同時合併について協議。引き続き各分科会を開き、それぞれ結論事項の再検討を行う。
 昭和三三年一二月 三日 新町建設計画、要望、協定等最終調整を行うため合併調整委員会を開催する。
 昭和三三年一二月 四日 新町の建設計画、要望、協定事項の調整結果を報告し承認を受けるため、全体会議を開催する。
 昭和三三年一二月 五日 各町村議会において合併決議を行う。
 3 新町の名称   久万町(くまちょう)
 4 選定の理由
 旧藩政時代から、合併関係町村及び以南高知に至る数か村を総称して久万山、あるいは、久万郷と称し、その名は県内はもとより県外にも通じ、商取り引きはもとより通信機関としても広く知られているので適当と考えた。
 5 新町の役場の位置
 上浮穴郡久万町大字久万町四八七番地第二
 6 役場位置決定の理由
 新町のほぼ中央に位し、各種行政機関の所在地であり、住民に便利である。
 役場の位置は、昭和三七年三月五日、現在地大字久万町ニ一二番地に変更された。
 美川村大字七鳥槙谷が、三か町村の合併により、久万町に編入されたことは、次のような理由によるものである。
 美川村槙谷地区は、美川村の北西にあり、久万町中野村に隣接し、周囲が山にかこまれた交通不便の地であり、現在交通路としては、車道一線だけが久万町に通ずるもので、美川村内各地にいたるには徒歩によるほかはなかった。したがって、生活物資、生産物資等の取り引きが、久万町を中心として行われており、地勢上、久万町との交流が多かったためである。合併後、槙谷は美川村大字七鳥から、久万町大字菅生の区域に編入された。
 合併にあたり、四か村の間に次のような協定書がとりかわされた。
    協 定 書
 久万町・川瀬村・父二峰村・美川村大字七鳥五番耕地の区域をもって、久万町を設置することについて、左記のとおり協定するものとす。
      記
一、新町建設計画について
  新町建設計画については、新町の一体制確保と建全財政確立の上に立ち、別紙分科会結論事項を尊重して策定するものとする。
一、支所の設置
  現在の川瀬村・父二峰村役場を支所とする。
  支所において行う事務は左のとおりとする。
   戸籍住民登録に関する事務
   町税その他の納入に関する事務
   諸証明に関する事務
   配給に関する事務
   その他、簡易な事務
一、新町設置後初めて行われる議会議員の選挙については、合併関係町村の区域ごとに選挙区を設け(槙谷地区は久万町に含める)各選挙区において選挙すべき議員の定数を左のとおり定めるものとする。
      記
  久 万 町     一三人
  川 瀬 村      八人
  父二峰村       五人
    計       二六人
一、職員の身分について
  一般職の職員は、合併の日にすべて新町に任用し、旧町村の勤続年数はこれを通算するものとする。
  合併後一か年以内に退職を申し出た場合は、優遇するよう措置するものとする。
一、町税の賦課について
  不均一課税とするもでき得る限り、速やかに均一課税とするものとする。
一、本協定以外の事項で必要なものについては、別に申し合わせするものとする。
  右協議の証として、本書四通作製し関係町村に壱通を保有する。
     昭和三四年一二月三日
      上浮穴郡久万町長      相 原 芳 太
      上浮穴郡川瀬村長      日 野   泰
      上浮穴郡父二峰村長     横 田 重 市
      上浮穴郡美川村長      土 居 通 栄
 こうして、藩政時代一三の小村が、明治二二年の町村制施行により五か村となり、更に大正一三年には四か村、昭和一八年には三か村としだいに合併してその区域を拡大し、昭和三四年三月三一日、人口一万五三一三人を有する久万町となって、輝かしい第一歩をふみ出したのである。

愛媛県変遷図

愛媛県変遷図


明治5年~11年までの大小区制による区画

明治5年~11年までの大小区制による区画


戸長役場配置表

戸長役場配置表


旧各村別人口及戸数

旧各村別人口及戸数


新久万町合併図

新久万町合併図


上浮穴郡久万町変遷表

上浮穴郡久万町変遷表