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久万町誌

1 合併一〇年の歩み

 町村合併一〇周年に発行された久万町誌を概括すると、「第二章 町政の動き」として一、維新当初 二、区長・戸長・村長 三、選挙 四合併後の町政から成っている。
 このうち、合併後の町政をみると「昭和三四年三月三十一日、旧久万町・川瀬村・父二峰村が合併して新久万町の発足をみたが、前途は必ずしも楽観を許すものではなかった。
 条例の制定、合併の条件整備、新町建設計画とその実践など、大きな課題が山積みされた中でスタートしたのである。」と記している。
 執行体制は、新久万町長に川瀬地区の日野泰(一~四期)が就任する。
 一方、議決機関の町議会には、久万地区一三名、川瀬地区八名、父二峰地区五名の合計二六名の議員が選出された。
 こうして、町執行部と町議会の陣容が整い、新町の行政が具体的に動き出したのである。
 先ず第一に着手されたのは、合併条件の実行であったが、これらは、急を要するものと、ある程度の期間を要するものとの二種類に分けられ、合併後、一〇年の間にそのほとんどの事業が完結をみている。
 第二に着手されたのは、「新久万町建設計画」であった。
 その前段の作業となる全町の実態調査が産業・経済・交通・文化・教育・保健・財政など一七項目にわたって課長以下の町職員全員の協力を得て綿密に行われた。
 調査の結果『健康にして文化的生活を営む町』の建設を基本目標とした新町建設計画が樹てられたのである。
 その概要は次の通りである。
 一 各種産業部門における所得の増大を図るため、基本条件と経済条件の改善
 二 各種産業の基盤の拡大を図るため、道路・水路・交通・通信施設の整備
 三 教育、文化の向上と衣・食・住の改善による生活の安定
 四 過剰人口問題の解消と所得の増強
 五 地域経済団体の整備強化と一本化の確立
 六 行政機構の改善と事務能率の向上を図り、投資的経費の増大に努める以上の基本構想に基づいて諸計画が樹てられ、諸施策が着々と進められていったのである。
 事業推進にあたっては、国・県の補助をより多く受けるよう各種事業の地域指定を受けていった。
 産業経済部門では、合併と同時に「農山村振興計画村」の指定を、そして農業構造改善事業では、昭和四〇年に東明神地区、四二年変に下畑野川なべら地区の耕地整備が行われた。
 また、昭和三六・三七年度にかけて林業構造改善調査が久万町と愛媛大学農学部の主催で行われ、久万林業の方向づけや技術体系の確立などに科学的な調査の手が加えられ林業の主要地形成が久万町の課題となり、以後、その方針にそった諸施策が講じられていくこととなる。
 この二つの構造改善事業の主体は、農業協同組合と森林組合であるが、これらの事業遂行のためには組合の強化が必至となり、農業協同組合は、昭和四〇年四月一日、明神・久万・直瀬・畑野川・父二峰の五つの農業協同組合が合併して久万町農業協同組合となり、つづいて、久万・川瀬・父二峰の三つの森林組合も合併して久万町森林組合となったのである。
 昭和四〇年には肉用牛繁殖地域の指定を受け、直瀬西山地区に繁殖センターの建設を、昭和四一年には養蚕経営総合対策事業に着手するなど、農業・林業・畜産部門での振興に努めた。
 商工部門では商工協同組合、商工業振興協議会を結成し、その振興に努めた。
 保健衛生面では、久万町立病院を新築移転するとともに、直瀬・畑野川・父二峰の三つの診療所の整備充実、医師住宅の新築に力を注いできた。昭和四一年から二名地区を対象に、鳥取大学医学部・愛媛県衛生部・久万町の主催で健康・栄養など六部門の実態調査を行い、科学的なデータに基づく健康対策を全町的に講ずることとなる。水道事業の普及もめざましく、また昭和四二、四三年度には、し尿処理場が建設されるなど、住民の生活環境も著しく改善されていく。
 教育面では、全町の小中学校が完全給食を実施することとなったほか、体育館・プールを年次計画によって建設した。
 昭和四二年には久万小学校の本館を鉄筋コンクリートにするなど、町内の校舎整備にも力を注いだ。
 全町一一の公民館活動も次第に活発となり、「体力づくりの町」の宣言など社会教育活動全般が活気に満ちたものとなる。
 国道三三号線の全面改良と舗装が昭和四二年に完成し、県都松山市への交通は飛躍的に便利なものとなる。
 テレビジョンの普及も昭和三九年のオリンピック東京大会の開催もあってめざましいものとなり、難視聴地域を解消するため昭和四二年にNHKの、昭和四三年に南海放送の中継所が町内に設置され、鮮明な画像が家庭に届けられるようになったほか、カラーテレビの普及も始まることとなる。
 また、昭和三〇年代後半からオートバイの普及が顕著となり、自動車も徐々に増えていくようになる。
 ここで特筆しなければならないことがある。
 それは、昭和三〇年代後半から顕著となった農山村地帯からの大都市圈への人口集中である。いわゆる過疎問題である。終戦直後を除き、戦前から徐々に進んでいた農山村からの人口流出は、昭和三〇年代後半から、わが国の経済が高度成長するのに伴い、非常に急激で、かつ、大規模なものとなり、大都市圈での人口と産業の集中による過密現象と、その裏腹の関係にある農山村でのとめどもないような人口流出が起ったのである。
 特に農山村での労働力の中心である青壮年の転出が著しく、金の卵といわれた中学卒業生の集団就職、挙家離村、一家の主人の出稼ぎなど、より高い所得を求めて、「地すべり的」とも評された過疎現象に農山村が見舞われたのである。
 当然のことながら久万町もその例外ではなかった。国勢調査報告によると、久万町の人口は、昭和三五年に一万四二九一人であったのが、四〇年一万二五六八人、四五年一万四八二人と一〇年間で三八〇九人、二六・六五%の減少をみせ、このうち、年少人口は実に二五二四人、四九・四八%の減少、出産年齢人口は一四八〇人、一八・〇九%もの減少となったのである。
 以後、過疎問題は、我が国の農山村社会の産業、教育、文化等々に大きな影響を与え、地方自治にとっても根幹的な課題の一つとなるのである。
 以上のように、合併後一〇年の新久万町の歩みは、わが国の重工業を中心とする高度経済成長の始期を背景に、国が掲げた農林業の構造改善政策の流れの中で、旧三か町村の合併条件の整備、新町建設構想と諸計画の実現に向けて強力な町政の推進を図っていったのである。