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久万町誌

1 区長・戸長・村長時代

 明治三年には代官が廃止され、久万山にいた代官代理の元締が郡政司として維新の郡政にあたることになったが、一年あまりで農政司と改められた。農政司も一年ほどで、大区の区長がこれに代わって郡の政治を司どることになった。この間の政務は元久万町村の大庄屋会所で行われていた。
 大区・小区の制度は、明治五年六月に布達されて、ただちに実施された。その後明治七年、同九年と区画の変更があり、明治一一年太政官(政府)の布告による郡制がしかれるまで六年間続いた。部制がしかれてから大正一五年までの四六年間は郡役所(郡長)によって郡政が行われた。
 明治七年の行政区画変更時に現久万町になっている旧村々の区別及び役人付を見ると、次のとおりである。
   大区ニ会所ヲ置ク
     区長、副区長    日勤
      一・六・の日   休暇
     第七大区々長    枚  正  慎
     副  区 長    宮 内 安 貞
       〃       梅 木 源 平
 ここで、実際に事務をとる者は、県より半年交代で派遣された官員であった。この官員は、「各大区詰官員心得ノ件」と銘打った二三条からなる心得書によって任務が定められていた。その内の主なものを拾って見ると、次のとおりである。
   第一条
  一、派出官員は該区内区戸長ヲ監督シテ専ラ事務ヲ調制整頓シ簾テ人民ノ便益ヲ計ル為メノモノナレハ深ク護民ノ大本ニ着意シ勤勉徒事毫モ怠リアル事勿レ
   第二条
  一、凡ソ事ヲ処スル其人情向背ヲ熟知セスシテ漫ニ速成ヲ要シ将来ヲ愆ルナク緩急宜シキヲ斟酌シ努メテ軽挙アルコト勿レ第三条
  一、区長以下ノ勤惰及ヒ能否ヲ監察シ直ニ上局へ密申スル事アルベシ
 派遣官員は区長の監査役をもかねていて、区長と同様の任務が課せられていた。当時の区長は仕事がやりにくかったと思われる。「区長事務仮条例」「戸長心得諸言」などによって、今から考えると全くうそのように制限された政治であったようである。
 しかし、区長、戸長ともに初めの内はもちろん官選であったが、明治九年には仮規則によって公選されることになり、第一回の公選区長が生まれたものの、この公選区戸長もほとんど官選に近い観があった。
 小区は大区の中にあって、現久万町は第七大区中の八小区になっており、小区の事務所は「第何小区取扱所」と呼称して、戸長あるいは組頭の私宅で政務をとっていた。
   小区に取扱所ヲ置ク
   所長(区長)         日勤
   組頭       二名    輪番
   一・六・の日         休暇
   一小区々長          船 田 健一郎
   (東明神村・西明神村・入野村・久万町村・菅生村・上野尻村・
   下野尻村)
   二小区々長          戒 野  鎮
   (上野川村・下畑野川村・直瀬村)
   八 小区々長         鶴 原 太郎次
   (露峰村・父野川村・二名村・臼杵村)
 明治五年各村では版籍奉還と同時に約二六〇年間続いた庄屋、組頭、作改、五人頭等の村役は廃止されて庄屋は里正と呼称を変えた。その任務も庄屋時代の代官の下役で年貢の取り立て機関のようなものから、一応住民の代表者となった。しかし初代の里正はほとんど久万では全員庄屋が官選によって任命されたが、この里正も明治五年の区画の変更されると同時に組頭と呼ばれるようになった。
 明治七年区画変更時の第七大区一小区の村長(組頭)を見ると、次のとおりである。
  一小区々長       船 田 健一郎
  一小区内組頭            
   東明神村   専務一等組頭    松 田 信 衛
   入野村    専務一等組頭    山 内 誠一郎
   久万町村   専務一等組頭    山 内 萬 衛
   西明神村   専務二等組頭    梅 木 正 衛
   上野尻村   専務二等組頭    河 野 通 矩
   菅生村    専務二等組頭    安 藤 国 八
   下野尻村   専務三等組頭    大 野 近三郎
 これをみてもわかるように、まだ藩制の名残りがあって組頭にも階級が附されているのもおもしろい。
 明治一〇年「組頭選挙仮規則」が時の愛媛県権令岩村高俊によって布達され、組頭は公選されることになったが、公選といっても現在のものとはほど遠いものであった。規則は、次のとおりである。
   組頭選挙仮規則
      明治一〇年布達々書
          各区々長
   組頭選挙仮規則及試験法別紙之通相定候条自今右ニ照準シ執行可
  致此団相達候事
      明治一〇年四月二一日
          愛媛県権令    岩 村 高 俊
       組頭選挙仮規則
  第一条 其小区内ノ町村会議事役ヲ以テ選挙人トス
  第二条 組頭タルヲ得ル人ハ該小区議事役ヲ始メ在籍ノ者ニテ年令二十歳以上ニシテ品行正直通常ノ資産ヲ有スル者二限ルヘシ
  第三条 左ニ掲クル者ハ組頭タルヲ得ス
     一、懲役一年以上ノ刑ヲ受ケシモノ
     一、身代限リノ処分ヲ受ケシモノ
  第四条 組頭転免死亡等ノ節ハ本区戸長ヨリ三日以内ニ後任選挙ノ儀ヲ選挙人ニ通達スヘシ
  第五条 選挙人ハ前条ノ通達ヲ受レバ速ニ町村会議所ニ集会シ投票ヲ取纏メ通達ヲ受ケシ日ヨリ五日以内ニ選挙人二名以上小区々務所へ持参戸長面前ニテ開緘スヘシ
  第六条 戸長ハ投票ヲ検査シ其多数ナル三名ヲ抜キ此規則第二条ニ照シテ能否ノ見込書ヲ添へ速ニ区長エ差出スベシ
  第七条 選挙人於テ撰択セシ人物区長ニ於テ之ヲ不適任卜見込ムトキハ試験仮方法二照準シ試験スヘシ
  第八条 町村ニ於テ相当ノ人物無之ト選挙人十分ノ六以上ニ於テ見込ムトキハ連署シテ戸長ノ撰択ヲ請フヘシ
       組頭選挙試験仮方法
   組頭選挙ノ投票、選挙人ヨリ差出シ開札シテ一番ヨリ三番迄人物、能否於戸長判然識得シカタキ時二区長ハ開申シ、大区々務所二右者ヲ一名宛日ヲ別シテ呼出シ、区長ニテ左ノ各目ノ如ク試験スヘシ
  第一条 本県布告及ヒ達書ノ類ヲ授ケ通読セシムヘシ
  第二条 筆硯ヲ授ケ送籍状等ノ如キ普通ノ公文ヲ二三行書セシムヘシ
  第三条 算盤ヲ把ラシメテ加減乗除ヲ試ムヘシ
     明治十年五月三日第一条改定
  第一条 一町村ノ町村議事役ヲ以選挙人トス
 このような布達による公選であったために、選挙の結果一位のものが必ずしも組頭となったものではないことがわかる。つまり、区長なり戸長に信任されたものが組頭になっていた。また、自分の村に適当な人物がないために同じ小区内の他の村の者を組頭に選挙し、借組頭の例も久万町では多い。非常におもしろいと思われるものは、その当時の議事役とは今の町会議貝に当たるが、その人数が、最高の久万町村でも一七名で、その他の村は九名から一三名までであった。九名で選挙し、一位四票、二位三票、三位二票となり、第三位で二票の得票であったが、戸長の信任厚くまた、その手腕も勝っていたので組頭になった例なども明神にあったそうである。
 その後明治一七年二月にはまた元に戻って組頭官選になり、明治二三年町村制実施までは県知事によって任命をされた。
 町村制実施から第二次世界大戦終了後の普通選挙になるまで議会議員による選挙が続いたが、官選から公選になりまた官選、公選、普選と、めまぐるしい変遷をしてきた。普通選挙の現在を除いては、官選、公選の違いこそあれ、前述の通り公選にしても、一般住民の意志は全然とり入れられなかった。