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久万町誌

3 町村会(郡)

 明治八年三月三〇日愛媛県令岩村高俊によって「町村会議心得」や「町村会議仮規則」が布達され、全国にさきがけて五月一日に町村会議の、第一回選挙が行われることになった。
 選挙の資格者は地面、家作等の不動産を所有している満一八歳以上の男子に限られており、被選挙者の立候補制はなく、区戸長、取締番人(後の警察官)、教職員、現役軍人は議員を兼務することができない定めであった。
 議事役(現在の議員)の定数は
  人口三百以下ノ町村ニ於テハ        九員
  同 三百壱   至  六百       一三員
  同 六百壱   至  壱千       一五員
  同壱千壱    至  壱千五百     一七員
  同壱千五百壱  至  弐千       一九員
  同弐千壱    至  弐千五百     二一員
  同弐千五百壱  至  参千       二三員
  同参千壱    至  参千五百     二六員
  同参千五百壱  至  四千       二八員
 任期は二年、毎年五月一日が選挙日であり議員半数が改選された。
 選挙は一同出席して衆人の前で一人ずつ入札をした、当時は印刷が普及していなかったので、入札用紙は小判紙の白紙に毛筆をもって、
  
    第何何大区第何小区久万町村  平民
                  草  野  良  助
  右之者当村議事役ニ適合ノ見込ニ候也
    第何何大区第何小区久万町村二〇番地
                  平  山  源  作 印
 
と、書いて入札をした。
 集まった者全員の入札が終わると開票をしたが、開票も入札を一枚一枚高声に読み上げる方法で行われた。開票が終わると、第一位の当選者が、会頭(現在の議長)となり、その他の当選者の互選をもって諸掌三名を選んだ。会頭は会の規則を掌り、衆議を判決する任務を有し会議の席では自己の論を発することは禁止されていた。諸掌は本会一切の雑事及び記録、費用等の管掌をすることになっていた。そして、会頭、諸掌、一般議事役ともに県の規定によってすべて無給でしかも、普通弁当の外はたとえ自費であってもみだりに飲食をすることが禁じられていた。
 このようにして生まれた村会は、どのようなことを審議したかを次に記して参考とする。
      第五章 議事ノ条款
 第一条 町村会ニ於テ議事ヲ要務トスル条款左ノ如シ
    一、官令ノ主旨ヲ遵守シ旧弊ヲ除キ開化ヲ進ル事
    二、町村限リノ費用ヲ定ムル事
    三、租税其ノ外諸公費ノ検査する事
    四、他向二対シ其村町ノ名義ヲ以テ原告又ハ被告トナリ詞論及ヒ同名義ヲ以テ借金並返済ノ事
    五、紅頭以下ノ人員、給料ヲ取極メ及ヒ公選入札ノ事
    六、金穀ヲ畜積シテ以テ非常災害ニ備フル事
    七、学校ヲ設立シ子弟ヲシテ学ニ就カシムル事
    八、貧民ヲ救恤シ棄児ヲ養育ニ及ヒ病院ヲ興シ帰籍ノ者ヲ常産ニ就カシムル等ノ事
    九、盗賊乱暴ノ者等総テ人民ノ妨得ヲナスヲ取締及ヒ其費用ヲ定ムル事
    十、其町村内ノ道路橋梁ヲ修繕シ及ヒ水路ヲ流通シ堤防ヲ堅牢ニスル等ノ事
    十一、地ノ宜シキヲ商リ物産ノ利ヲ起ス事
    十二、水火難手当ノ事
    十三、其町村共有ノ品物ヲ売払ヒ又ハ質入等ノ事
    十四、県社以下祭典料、営繕費並神官ヘノ奉祭料等ノ事
 明治一七年七月一〇日県令関新平代理、愛媛県大書記官湯川章によって「町村会規則」が布達され、各町村とも議員の大幅減員を行った。
 西明神村の例をとると戸数三〇〇余りで、議員定数一三名だったのが、一挙に八名減らされて、五名の議員が村政を担当することになった。各町村でも町村会規則第三条に「町村会議員ハ其町村五百戸未満五人、五百戸以上八百戸迄六人、八百戸以上三百戸毎ニ一名ヲ増ス」と、いうことであったので、各村の定数がはかり知られる。また、第四条によって、「議員ハ俸給、旅費、日当ヲ給セス」とあって、ほんとうに奉仕的な職務であった。この改正によって任期二年から六年となり、三年ごとに半数が改選されることになり、明治二二年、町村制実施によって、選挙法が改正されるまで続いた。当選した議員は県知事あてに請書を提出し、清廉と潔白をちかった。請書の例をあげると次のとおりである。
      請    書
  今般本県甲第百三六号ヲ以テ区町村会法改正ニ付議員改選某等這回我村会議員ノ選ニ瘠レリ某等之シテ皇天上帝ニ誓ヒ清廉ト勉励トヲ以テ公平ノ議論ヲ尽シ其ノ責任ヲ負担スヘシ依テ受取差出候也
     上浮穴郡西明神村千九十番地  平民
                 小 倉 団十郎    印
       同郡同村九百五十六番地  平民
                 宇都宮 友三郎    印
       同郡同村千百五十六番地  平民
                 宇都宮 七三郎    印
       同郡同村参百二十番地   平民
                 正 岡 久米蔵    印
       同郡同村五百二十三番地  平民
                 正 岡 彦五郎    印
 明治二一年(一八八八)四月に交布され二二年四月より実施された市町村制によると、この制度は市、町、村の自治体を認めると同時に住民の権利と義務を規定したものであって、町村の執行機関である町村長は町村会で選挙を行い、知事の認可を受けて決定されることになっていた。
 市町村議会議員の選挙は選挙権、被選挙権ともに満二五歳以上の独立している男子で、二年以上引き続きその市町村に居住している住民であり、市町村の負担を分担しその上、直接国税二円以上又は地租を納めている者に限られていた。
 更に等級選挙制というのがあって、市議会議員の場合は三級制を採用し、町村では二級制を採用した。
 二級制とは村税個人納付額によって上下の二階級にしたものであって、その定め方は町村税の個人割額の上位の者より順次とり、町村税総額の半ばにいたるまでの人数をもって一級とし、それ以下の者をもって二級の選挙人とした。一級、二級でそれぞれ町村議会議員定数の半数ずつを選挙する方法であった。明神村の例を表によって説明すると、明治四二年の明神村の村税総額は一六九〇円六〇銭で、選挙資格者は四五八名となっている。この時の明神村の議員定数は一二名であった。なおこの年の最高納税者は、一〇四円二五銭であり、次点より順次加算して二二名で八四五円三二銭となり、この二二名が一級で残りの四三六名が二級となる。したがって一級は二二名で六名の議員を選出し、二級は四三六名で六名の議員を選挙する方法であった。
 現在の普通選挙から考えるとずいぶん変わった方法であった。
 これを、昭和四二年度の久万町町民税で試算してみると次のようになる。
 住民税総額一四〇〇万円、納税者数三五六〇名。最高納税者個人税額九三万円。二四人で七〇〇万円となり、一三名の議員を選出することになる。そして、残り三四四六人で七〇〇万円となって、一三名の議員を出すことになるのである。
 昭和二二年町村議会議員選挙も男、女とも満二〇歳以上の者は全員選挙ができ、女子の立候補者や議員も生まれた。

入札用紙

入札用紙


租税並びに毎戸負担及び選挙有資格者数(明神村)

租税並びに毎戸負担及び選挙有資格者数(明神村)

図表内「明神町」とあるのは「明神村」の誤りである。