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久万町誌

2 郷 筒

 藩の地方行政官の代官は世によく知られている存在であるが、その下に司法権を持って地方に居住し、銃砲や刀剣などの取締りから地方官の護衛などの任務を持つ郷筒がいた。郷筒は、郷、村の銃砲数など常に把握しており、猟師の使う猟師筒は郷筒のもとに登録されており、その他の威筒や同心筒を預かっていた。
 任免は藩において行われ、給米は八俵から一〇俵をもらい、改庄屋や大庄屋の内から若手で、しかも功績のあったものから任命された例が多く、「久万山手鑑」によってその任免を見ると次のとおりである。
  一、郷 筒         儀右衛門
     郷筒仁右衛門享保四(一七一九)亥年役儀御免ニ付後改同年五月ヨリ被仰付二人扶持方被下置相勤申候
  一、御手代         船 草 八郎右衛門
     旧日之浦之郷筒役相勤罷有寛文三(一六六三)卯年久万町村罷越六年相勤八年申年御手代役被仰付
  一、大庄屋         梅木久右衛門
     但寛文一二(一六七二)子年郷筒役並宗右衛門下役被仰付、七鳥村に罷有元禄一五年午年迄三一年相勤同年大庄屋役被仰付、久万町村江罷出、正徳三巳年迄一二年相勤
  一、郷 筒         伝吉
     貞享元(一六八四)子年五月二七日、郷筒役宗下役人ヨリ仰付弐人扶持方被下置候但先郷筒役儀御免被仰付候
  一、大庄屋         船草 彦兵衛
     但元禄一四(一七〇一)を年郷筒役被仰付、享保七(一七二二)寅年八月御奉行河原仁左衛門様、御奉行竹内市左衛殿御登山之節、御代官竹村平八殿ヨリ同改役被仰渡後郷筒兼役高二人扶持被下置刀御免、久万町村住居被仰付候
  一、郷 筒         善蔵
     寛保二(一七四二)戌年五月役儀被仰付
 以上は東明神村、久万町村の例である。享保四年五月に任命されている儀右衛門はさきの郷筒仁右衛門の子である。この儀右衛門の在勤中に松山藩第五代城主定英の久万山御廻領があり、三月二七日から三日間護衛役を務めている。この儀右衛門の曽孫に当たる儀左衛門の時代にも安政元年に御廻領があって、その前年の秋、下検分が行われたが、この時の功績によって、苗字、帯刀が許され、鈴木儀左衛門と名乗り、代々郷筒職をついでいる。そして、久万山の玄関口である三坂峠に住居を命ぜられ、そこに住みつき明治初年まで続いた。明治初年士族、平民の制度ができた時は代々郷筒職であり、しかも苗字、帯刀を許された家柄であることから、鈴木家は士分ということで士族となった。
 その他の郷筒はだいたい一代名誉職であったために、たとえ改庄屋、大庄屋職を務めた人であっても、明治初年に在職してなかったものは平民となるのがふつうであった。御手代となった船草八郎右衛門は、手代というのがそもそも、代官の下役の武士であったので郷筒から、武士になったことを意味するのである。
 その他西明神村・入野村・菅生村などには、郷筒はいなかった。現久万町では三坂と、久万山会所(大庄屋役所)、畑野川の三か所にいて、郷筒のいない村では、城主の御廻領や、巡見使、代官などの久万山登山の節などには、仮郷筒が任命されて護衛をした例も多く見られている。
 寛政元年(一七八九)巡見使登山の節の、郷筒が管理していた銃砲数が左のとおり記録されている。
  一、鉄砲数    四二二挺     久万山
         内
            一六挺     同心筒
           一九〇挺     威 筒
           二一六挺     猟師筒
とあり、寛保の「久万山手鑑」によると各村別鉄砲数は、不明の村もあるが下のとおりとなっている。
  村 別    合計
 東 明 神   一七
 西 明 神    六
 野   尻    一
 菅   生   一四
 畑 野 川   一七
 直   瀬   二一