データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

久万町誌

1 消防組

 旧久万町では、明治四四年四月に消防組が結成された。結成の翌年四月に久万町住安町に大火があって警察署をはじめ、民家二三戸が全焼し罹災者七六名を出したことなどに刺激されて、明神村・川瀬村・父二峰村で次々と結成を見るにいたった。しかし、久万町における消防組織及び装備は、明治三六年の県の統計書をみると次のような記録がある。
  組 員    三三人
  梯 子      二
  ポンプ      一
  水 桶     六二
  掛矢槌      三
  鳶 ロ     一二
  マトイ      一
  其の他     九七
 これをみてもわかるように、久万町内では以前から自主的な消防組織を作って、非常の備えができていたものと思われる。とにかく明治四四年には久万町の消防組として新たに発足をしたのである。その長となる者を「組頭」と称し、部長、小頭、消防手の段階があり、警察の下部組織であった。任免権は、警察署長がもっていた。ほとんど無報酬であった。品行の点については特に厳選された組員であり、名誉な職として一般住民からは尊敬されていた。
 消防組は火災での出勤はもちろんであるが、その他水害、地震等の場合にも出動してよく住民を助けた。更に、重大犯人等が逃亡した時の山狩りから、家出人の捜査にまで協力した。また、大雪の日には消防組が雪をはねて学童のために道を作って通す仕事までしていた。このように任務以外に社会奉仕まで買って出て働くことが消防組員の本分と心得ていたといっても、過言ではあるまい。
 法被、股引、地下足袋姿で小学校の校庭での訓練は小学生の心を引きつけるものであった。ポンプ操作方から梯子のり、防火訓練と、出初式の行事は、はなやかなものであった。マトイにつけた金馬簾は武勲を示すものであって、その数の多いのが自慢とされていた。
 消防組の結成当時は手押しのポンプが重要な装備であって、その他は手桶といって布製の水桶と鳶口ぐらいのものであった。久万消防組は大正一五年にガソリンポンプ一台を備えた。続いて、昭和六年に二台目が購入され、次第に充実されはじめたが、昭和一〇年を過ぎたころから軍需景気で、軍需工場へ若人が、また兵役に服する者も多くなって、人手不足が目立ってきた。戦時体制下にはいった昭和一三年からは防空訓練がはじまり、翌一四年の警防団誕生まで消防組は続いた。警防団から消防団と変わった今日、消防組名残りの団服が残っているものもある。