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久万町誌

1 公立診療所

  ア 久万町立病院
 終戦直前の松山市の焦土化と、未曽有の食糧難によって、松山市の住民が一挙に周辺の町や村へ疎開していったが、久万町にも、多くの戦災者が、親族や知人を頼りに住居を求めて転居してきた。その上、軍需工場や海外からの引揚者も加わり急激に人口が増加した。
 元来、久万町の、重症患者の医療は松山市の病院に依存してきた。しかし、当時においては、焦土と化した松山にたよることができない実状となり、二、三の開業医はあっても、増加する住民の医療をさばくだけの施設に恵まれず、医療に対する住民の不安は深刻化してきた。
 このような状況のもとで、時の町長、八木菊次郎は英断をもって、久万町国民健康保険直営病院の設置に踏みきった。
 昭和二一年七月、久万町大字久万町一五八番地に起工、同時に医師の招へいにつとめた結果、戦時中陸軍軍医として中支戦線で活躍していた、松山市出身の吉村久雄医師を迎えることができた。病院開設までの期間は旧久万町役場の一かくを直営診療所として、昭和二一年八月一日より診療を開始した。
  所長 医師   一名
  看 護 婦   三名
  事 務 員   二名
 このように、小さな診療所の上に戦後のため医療も衛生材料も不足がちであった。しかし、所長の吉村医師は、これらの物資不足を技術面で補ない、町民の診療につとめて、町民に安心感を与える一方、暇があれば遠く他町村にまでも往診に出かけた。
 その結果、町民はもちろん、広く郡内一円の住民に親しまれ、厚い信頼を得るようになった。ところが、厚生病院の建築も完成して、開業する直前の昭和二二年四月八日、小田町丸井病院の招請によって、夜間同町に往診した帰途、田渡村臼杵の県道において、自動車事故のため殉職した。惜しむべき人材を失ったものである。
 久万町国民健康保険直営久万厚生病院の建築については、戦後のことなので、木材を除いた建築資材はすべて、県建築課の割当てによってまかなわなければならない実状であり、資材の入手にはなみなみならぬ苦労がともなった。
 昭和二二年四月、木造二階建て、延べ坪数四○一・七五坪、総工費一九四万円をもって完成した。内科、外科、産婦人科、レントゲン科、それに病室(病床数四〇床)を有する郡内唯一の総合病院となった矢先、吉村医師の急逝のため、院長として、宇都宮利雄の帰省を要請し、各科の陣容をととのえ、昭和二二年四月二六日、診療を開始した。(現在のNTT跡)
  ○初代院長   宇都宮 利 雄     内 科
   医  師   棟 田 三 雄     内 科
   医  師   宮 村 敏 男     外 科
   医  師   矢 鳥   湊     婦人科
   看護婦                一二名
   事務職員                九名
 初代院長宇都宮利雄が、個人病院経営のために退職した後、各科医師も次々と退職して、病院運営は極めて困難な事態に直面した。そこで時の町長高野義唯は医師の招へいに東奔西走した。その結果、長崎医科大学の厚意により、同大学との契約ができ、次々に医師の来院を得て、各科ともに充実、総合病院の陣容は確立されると同時に、長崎医科大学病院の出先機関としての様相を見せはじめた。
  ○二代院長   松 田 正 幸
   医  師        四名
   看護婦        一三名
   事務職員        五名
 その後、給食室及び看護婦宿舎も完成し、完全給食の実施を始めた。三代目院長には河野通夫が就任した。当時、厚生病院の利用患者は多く、旧国道に面した狭い敷地であったため、次のような問題があった。
  一、施設は破損多く、非衛生的
  一、結核病棟の設置を必要とする。
  一、眼科、耳鼻いんこう科の新設
  一、現位置へは増設困難
 このため、移転新築の議が起こった。
 昭和三三年二月一一日、第一期工事として、結核病棟を移転地に新築することになった。工費六三〇万円をもって六月に完成した。病床三〇を有する結核病棟には看護婦二名を常駐させ、医師は、毎日本院より往診した。引き続き、第二期工事には診療棟・給食棟・普通病棟を一六六〇万円で、第三期工事の診療棟は五八〇万円で完成した。その後、町村合併によってその名称も、厚生病院から久万町立病院と改称した。翌三五年四月一日旧病院を廃止して新病院に移転した。そのときの陣容は次のとおりである。
  ○三代院長   河 野 通 夫 
   医  師        四名
   看護婦        一七名
   事務職員        七名
   その他         三名
   病  床   一般  三四   結核  三〇
   診療科目  内科・小児科・外科・産婦人科・耳鼻いんこう科・眼科
 昭和三七年には、第四期工事で、普通病棟・看護婦宿舎・医師住宅等、一五〇〇万円をもって当初計画が一応終了した。その後、医師住宅の建築を行い、完成して現在にいたっている。
 昭和四一年には、一三年間勤続して病院の発展にはもちろん、郡内一円の医療行政に貢献してきた河野通夫院長が退職し、竹下良夫院長を後任として迎えた。このときの陣容は次のとおりである。
  ○四代院長   竹 下 良 夫
   医  師       四 名
   薬剤師        一 名
   技術職員       二 名
   看護婦        二〇名
   事務職員       八 名
   その他        一七名
   病  床   一般  六二   結核  三〇
 昭和四九年一二月、町民の多年にわたる要望であった歯科医師を台湾より迎えることができ、本館二階を増改築し、歯科を開設した。初代歯科医は張揩堂医師である。
 同四四年一二月、医療技術の著しい向上と生活環境の向上に伴い、死亡率の上位を占めていた結核患者は激減したが、その反面、成人病患者の増加をみるに至った。それらに対応するため、結核病床三〇床を一〇床にし、二〇床を一般病床に変更し、更に二床の増加が認められ、一般病床八四床、結核病床一〇床の九四床となった。
 その後、昭和三二年に着工し、順次整備された病院も、木造建築のため老朽化が著しく、更に設備、医療機械等も旧式のものが多くなり、昭和五○年一一月二二日、病院建設委員会が結成され、昭和五二年八月に病院建設の基本構想が検討された。その間、病院においても、院長を中心にして院内検討会もしばしば開かれた。同年一二月、京都市の内藤設計事務所に設計を委託した。新しい病院は、昭和五三年・五四年の継続事業で、鉄筋コンクリート二階建てで、延べ三六六七平方メートルの白亜の病院が完成した。一般病床八九床、結核病床五床、リハビリ室、救急処理室、歯科技工室など新設。レントゲン検査室の充実、医療器械の更新が行われた。また高齢化社会に対応し、試みとして老人や身体障害者の方が容易に二階に上がり下がりができるようにスロープを設けた。
 昭和六三年度からは町民待望のCT(コンピューター断層撮影診断装置)の稼働により一層良質で充実した医療の提供がなされるようになった。一方、自治体病院の使命の一つである治療活動だけでなく、地域保健活動・予防活動にも積極的に参画し、昭和五七年から一日人間ドック(半額町捕助)を実施し、昭和五九年からは一般住民検診(二二会場)を行い、昭和六〇年には、子宮がん検診、一般住民検診の事後指導(夜間六会場)や公民館などの健康学級にも協力している。現在では医師の確保についても愛媛大学医学部の全面的な協力を得て名実ともに上浮穴郡の中核病院としての医療体勢を確立している。
 現在の町立病院の診療施設の概況は次のとおりである。
  〇五代院長  矢 野 侃 夫
   医  師  七名    看護婦   二五名
   薬剤師   二名    事務職員  一三名
   技術職員  七名    その他   一一名
   病 床  一般 八九  結核  五  計 九四
   診療科目  内科・外科・小児科・産婦人科・眼科・耳鼻科・歯科
  院長のひとここと…………
   住民検診はまず受診率を向上させて、疾病の早期発見・早期治療につながるように努力がなされることはもちろんであるが、今日ではその必要性の高い四〇歳代の受診率の向上がより望まれるところである。
   検診は問診・検査・診察等による総合判定を通知するだけの事後指導では不十分である。要注意、要精検、要治療のケースについては、医師・保健婦・看護婦・栄養士等によるマンツーマンの指導があって、初めて、住民は検診結果による健康状態を理解し、検診がより充実したものになる。ひいては、受診率の向上にもつながるものと考えられる。今後も指導する側、受診者双方に検診の取り組みに対する努力が一層必要とされる。
  イ 町立診療所
   直瀬診療所
 畑野川診療所が開設されてから、直瀬地区住民は、直瀬にも診療所の開設を強く要望してきた。そこで、昭和三三年夏ごろより、診療所を開設しようとした。
 元来直瀬地区には平山、鉾石、井上、山本等の医師が次々に開業していて、営業もじゅうぶん採算がとれていたことなどから見て、川瀬村としても、また、直瀬地区も運営には自信をもっていた。位置としては、字馬門甲三二七三番地の直瀬地区有地が最適の候補地だったので、ここに決定した。総建設費五四一万五○○○円の内国庫補助が一一〇万八〇〇〇円で、残りを一般会計より繰り入れて着手した。
 当時の川瀬村は、父二峰村と同じく久万町と合併するための準備中であって、村長をはじめ、理事者は東奔西走のさなかであった。診療所建設の工事も着々と進行していた。昭和三四年三月三一日新久万町誕生の時には完成を見ておらず、完成までは旧川瀬村で責任を持つことになっていた。設立費は別途会計によってまかなわれ、五月末完成し、人員配置等も完備して、久万町国民健康保険直営直瀬診療所として発足した。昭和三四年六月五日、業務開始時の診療所職員は次のとおりである。
  所   長  九木 健 三二歳
  看 護 婦    二名
  見   習    一名
  事務その他    三名
 初代所長九木健は長崎県出身で久万厚生病院に勤務していたが、直瀬地区民の招きによって退職して開業していたものを、そのまま初代所長に迎えたものであった。地元の信頼も厚く、したがって患者も多く、住民は、よく施設を利用した。四年にわたって奉職したが、長崎市で開業するため退職した。
 その後は、医師不足で愛媛診療所からの輪番出張診療や、長崎医大より三ヶ月交替で若い医師が来て診療に当たっていた。一年後専任の所長、白浜宏が就任した。町当局はもちろん、直瀬住民も安心して診療か受けられることになったと喜んだのもつかの間、一年後には、病のために入院し退職した。
 昭和四一年八月、老齢の桐林茂が就任、その後、町立病院より出向の富田英明、昭和四四年六月、畑野川出張所兼務宇治原草積を経て、昭和五〇年一一月、任重洛が所長になった。診療所は従来木造建築のため老朽化も著しく設備も古くなったので、現在の住民センターと合体工事で鉄筋コンクリート造りのモダンな施設が完成した。
 昭和六二年、長年にわたり地域住民に親しまれてきた任重洛所長が定年退職し、昭和六三年四月から、温泉郡中島町出身の小児科専門の豊田茂樹所長が就任した。現在の陣容は次のとおりである。
    所 長    豊田 茂樹 三四歳
    看護婦    一名    事務員     二名
   父二峰診療所
 昭和一二年、父二峰村代理助役宮田道考は無医村における医療の実態につき、村議会とその対策を協議した。その結果、できうる限り早い時期に医師を招へいすることとし、それにはまず診療施設を建築することが第一の条件であると考え、議会の承認、協力を得て、診療所建築を決定した。
 位置の選考に入ったが、これがなかなかの大問題であった。診療所建築については、村をあげて賛成、協力をおしまない態勢であったが、位置決定となると、二名地区、露峰地区住民は、たがいに主張して譲らなかった。村議会でも同様で、再三の議会全員協議会を開いて、意見統一をはかったがまとまらず、理事者においても、診療所設置を中止するのやむなきにいたる寸前、当時の県会議員大野助直が仲裁に入ることになり、両者とも、県議に一任することにした。その結果、大野県議は現露峰診療所地を提案、村議会もこれを了承し、ようやく位置の決定をみることとなった。
 位置決定と同時に工事に着手する一方、医師の招へいに努め、村長、村議等は、手づるを頼りに東京、大阪、岡山などに出向き、やっと大阪より医師を迎えることに成功した。同時に診療所建築も終わって開業することができた。
 開設当時は、木造かわらぶき平家建二六坪一棟であった。医師の住宅も診療所同様であり、内容設備もごく簡単なものであった。しかし、村にながらくなかった医者の開業であったから、待ちに待っていた病人の喜びは、たとえようもないほどであった。医者を迎えた父二峰村は、村費年額六万円と施設の無償貸与をし、医師はこの補助によって自己営業をすることにした。
 昭和三二年、当時の村長横田重市は、父二峰村大字露峰甲四二〇番地にある診療所改築を決意し、年度当初予算二〇〇万円を計上して、議会の承認を得て直ちに着工した。建坪も五○坪と大幅な拡張を行い、患者入室の設備も加えて現代的な診療所を建築した。久万町と合併後の三六年には、看護婦宿舎を建設し、これまでの委託診療から、久万町国民健康保険直営診療所として、人員、施設、設備とも、他の二診療所と変わらない内容となっていた。
  当時の陣容
   所 長    宮 原  茂
   看護婦        二名
   事務員        二名(自動車運転士を含む)
 所長の宮原茂医師は、今後のへき地医療問題について、
   「現在まで父二峰地区としては、山村のへき地でありながら、医療の面では、同条件の地区と比較して、ある程度、恵まれた状態にあったことは、否定できないことである。日本全国の医師は約一一万人余りで、その大部分は、都会地の周辺に集中しているのが現状である。その県の大学に医学部があるかないかによって無医地区の数が左右されやすい。その要因は大学より医師が派遣されやすいこと、医師もまた、研究の便があることによるものである。 愛媛県は医学部所在地より遠隔の地であるので、ますます、今後無医地区が増加する傾向にある。地区住民の労働力再生産としての見地からも、あらゆる施策をして、地区の診療体勢の確立は、今後に残された大きな課題であると思う」
 その後、昭和五○年五月、宇治原草積所長が就任し、診療に当たっていたが、高齢のため昭和六〇年退職された。後任には町立病院から浅田耕造医師が着任され、昭和六二年四月から女医の熊本いずみ医師が所長として就任し、町立病院との連携を密にして、より高度医療が受けられるようになった。
 昭和六二年度、父二峰診療所二名出張所が宮成地区に正式に開設された。診療は毎週月・水・金曜日の午前中に行われており、二名地区住民の医療サービスはより充実された。
   畑野川診療所
 川瀬村の当時の村長日野泰は、住民の要望を入れて、国民健康保険直営診療所開設を企画し、まず畑野川から始めた。昭和三二年四月一六日、川瀬村国民健康保険運営委員会の協議会を開いて、診療所の位置、建設費、内容施設等について協議した。その結果、下畑野川日野敦親所有の、同所字五味甲三五五番地の土地九畝二〇歩を三五万円で購入、建築費三五○万円、診療施設(備品)費一五〇万円、計五〇〇万円の内、一、二四八千円を国庫補助、三、七五二千円を一般会計より繰入れをして建設することに決定した。
 五月二七日、指名者一三名をもって入札、再度の入札の結果、沼田健男に示談落札した。直ちに工事に着手し、三三年二月に工事が完成した。同時に、京都府下の診療所に勤務していた医師、奥野博司を迎えて初代所長に、元陸軍看護婦、玉井トミ子を温泉郡川内村より迎え、村内より事務長、看護婦、自動車運転手等総勢九名の陣容によって業務を始めることにした。開設当初の状況は、次のとおりである。
  一、所在地及び名称
    大字下畑野川甲三六九の二番地
    川瀬村国民健康保険直営診療所
  二、開設者   川瀬村長  日 野   泰
    管理者   医師    奥 野 博 司
    業務開始  昭和三三年二月一二日
  三、診療科目  内科・小児科・外科・放射線科
  四、設備概要  手術室・手術台・顕微鏡・X線装置三〇〇ミリ
          その他心電計
  五、許可病床  二床
  六、社会保障関係により診療
          健保・共済・結核予防・国保・生活医療保護
  七、社会保険施設による看護施設
          完全看護実施
  八、従業者数  医師  一名    看護婦  二名
          看護婦補助者    二名
          その他技術者    一名
          事 務 係     二名
          使    丁    一名
 昭和三四年三月三〇日、久万町合併によって川瀬村診療所を廃止して、四月一日付をもって、久万町国民健康保険直営畑野川診療所と改称した。
  医    師   一名
  看 護 婦    三名
  その他従業員   四名
 その後、久万町立病院畑野川診療所となったが、再び久万町国民健康保険直営畑野川診療所となり、更に、昭和四五年度以降直瀬診療所畑野川出張所として、直瀬診療所の医師が診療にあたっている。
 このように、無医地区解消のために開設されたへき地診療施設は地域住民の医療の不安や疾病予防に対して住民サイドに立って存続していかなければならないが、一方では時代の流れに左右されやすく、人口減少交通網の整備、医療技術の高度化診療科目の専門化によって、患者の選択幅が拡大され、患者数の減少とあいまって診療所の運営はきびしいものがある。今後は一層、合理化・能率化に重点を置き、経営の健全化に努力するとともに長寿社会に対応し、地域に根ざした医療の提供を行い町立病院と連携を密にして地域の健康づくり、在宅療養者の訪問看護・生活指導か大きな課題になってくる。また、診療所の医師確保は、へき地であればあるほどむずかしい。医師自身が医療学術研鑽の機会に恵まれない上に、子弟の教育の問題などが重なり、山間へき地の勤務としての招へいが難しいが、地域住民と医師が一体となって地域医療体制をささえあっていくことが重要なポイントになる。
 診療費用は、上昇しているが必ずしも運営は好転していない。医療費改定等による一件当たりの診療費が高くなっているし、患者負担及び行政負担が増大している。診療所運営費は診療収入の二倍を要している。また、診療所運営の好転は、国保会計の増大と相関関係にある。
 自動車の普及に伴い、専門医の受診を受ける傾向が強まり外来患者が減少している。慢性疾患の固定化又は行動を制限される老人婦女子の受診が多く、老齢化の社会構造現象もみられる。 

町立病院事業収支決算書

町立病院事業収支決算書


患者数の推移

患者数の推移


診療費用の動向

診療費用の動向


受診件数と受診日数

受診件数と受診日数