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久万町誌

1 避病舎

 明治以前に、おそれられていた伝染病ではコロリ(コレラ)、赤便(赤痢、疫痢)が主なものであり、痘そう患者もかなり多く発生した。
 痘そうについては、常時患者がいたにもかかわらず、伝染病としての関心はごくうすく、皮膚病程度としか考えられていなかった。したがって、痘そうの流行には松山藩でも手をやき、安政五年には全松山藩下に種痘が行われている。
 明治に入ってからも、伝染病に対する政府や県の施策も講じられておらず、明治二七・八年の日清戦争中、海外からいろいろな伝染病が復員軍人や、その他から伝染し、久万町でも多くの患者が発生した。
 その当時は、各町村ともに隔離病舎の設備がなかったため、警察官の指示によって、人家から離れた野原などに仮小屋が建てられた。そこでは、看病人(身内の者)が限定されて看病に当たるほかは、人の出入りを禁じ、警察官、医師以外は、病人の顔を見ることもできない状態であった。
 治療薬や消毒薬も少ない時代であり、患者の死亡率は極めて高かった。
 明治二七年六月、東明神に発生したコレラ(一説には疫痢ともいう)の伝染経路は不明であるが、ハラヤブという野原に仮小屋を建てて隔離した。三一歳の壮年であったが、間もなく死亡し、患者の実父も看病していて伝染、一〇日間に父子が死亡してしまった。その後、小屋、衣類、食器、その他全部を警察官、役場が立合いで焼却した。
 明治三〇年四月、法律第三号によって、初めて「伝染病予防法」が制定された。「市町村は県知事の指示に従い、伝染病院、隔離病舎、隔離所、又は消毒所を設置すべし」とあり、この法律によって定められた伝染病を、法定伝染病といい、法定伝染病にかかった場合は、各市町村において、隔離、消毒などの義務を負うことになった。その種類をあげると次のとおりである。
   一、コ  レ  ラ     ニ、赤 痢 (疫痢を含む)
   三、腸 チ フ ス     四、パ ラ チ フ ス
   五、痘  そ  う     六、発 湿 チ フ ス
   七、猩  紅  熱     八、ジ フ テ リ ア
   九、流行性脳脊髄膜炎   一〇、ペ  ス  ト
  一一、日 本 脳 炎
 この法律によって各町村では、大字部落を単位として衛生組合を作り避病舎を建築した。その後、各町村ごとに一か所に統合された。
 昭和二七年、上浮穴郡の町村が「統合伝染病棟組合」をつくり、久万町大字久万町一一番地に木造モルタル造り延建坪一二八坪を建設した。
 その後、郡内の伝染病患者は、全部この施設に収容されることになった。