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久万町誌

1 概 要

 久万町は、高冷地特有の、水も空気も清く澄みきった健康上最適地である。加えて昔から農林業が主たる産業であったため、特に衛生思想か普及していたわけでもないが、よい環境と適度な労働によって、比較的健康に恵まれていた。
 しかしながら、病気が全くなかったわけではなく、古くから薬日といって五月五日や夏の土よう中の丑の日に、薬草や、薬となる鹿の若角を採取したりして、病気にそなえた。
 薬草に使われていた植物で、現在久万の山野に産するもので五○種類以上もある。その中で、今なお使われている薬草は二〇種をこえている。病になると、これらの保存薬草を煎じて服用することによって、ほとんどが治癒したが、ときには、難病もあって病が長びくと、神仏だのみや、祈とう師による「病祈とう」が行われていた。
 幕末のころからは、薬売りの行商人がときどき来るようになったが、頭痛、腹痛程度の薬に過ぎず、重病人を救うことにはならなかった。
 維新前の伝染病について、おもしろいことばが残っている。
  一、「ハシカ」を「寿命定め」
  二、「ホーソー」を「器量定め」
  三、「コレラ」を「コロリ」
と言っておそれられていた。一のハシカによる幼児の死亡は特別に多く、良薬のない時代、衛生思想の乏しいころの農民の子供たちが、つぎつぎと高熱のためになくなっている。「寿命定め」とは、ハシカの難事を切りぬけたものは長く生きられるという意味である。二のホーソーは、これにかかると顔面がみにくい「あばた面」となり、昔はこのあばた面が多かったのである。このようなことから、「器量定め」ということばが生まれたのであろう。三のコレラについては、この病気にかかると、手当てのひまもなく、コロリとなくなることを意味しておそれられていた。
 徳川の幕府でも、なんら病気に対する予防や治療方法の手段はなかった。将軍家であろうと、各藩の殿様であろうと、病にはかてず、祈とう師による「病祈とう」を行った例が多く伝えられている。現在の医師以上に祈とう師が重要な存在であり、主治医のかわりに「おかかえ祈とう師」を置いていたところもあった。
 こうしたなかで、松山藩は、予防対策について早くから意をつくし、全国にさきがけて安政五年(一八五八)松山藩命によって初めて種痘を行っている。天然痘に対してはずいぶん手をやいていたものと思われるので、松山藩が全国にさきがけ、藩内全域に種痘を実施したことは特筆すべき大事業であった。
 明治にはいってからも記録は少なく、ようやく、明治四三年に郡内各町村が編集した郷土誌の衛生部門に、各村が実績を書いている。その実績によると次のとおりである。
  久万町 避病舎一か所あり。
  明神村 東明神及び西明神、入野に各々に避病舎あり、また衛生組合あり。
  菅生村 明治二六、七年ごろ赤痢病流行ありしも、その後今日(明治四三年)に至るまで流行病更になく明治三八年避病舎を築造したるも流行病皆無のため、まだ一回も使用したることなく今日に及べり。近時、時々衛生講話等を聞き、村民衛生思想に富み、一般健康状態良好に向いつつあり。
  川瀬村 土地高燥にして空気清潔なるがため、身体一般に強健にして長寿者多く、一年中医師にかかざるか如き者甚だ多し。然りと雖も衛生の智識猶ほ未だ普及せざるため、時々流行病の蔓延あり、過去一〇年の流行性病の記録を記す。
  父二峰村 古くより流行病ありしこと稀にして衛生に対する設備金かからず、避病舎はありと雖もその腐朽に任す、三部落に各避病舎設く、医師は一人あるのみにしてその外久万町より二名、時に出張するのみ。

久万町年度別伝染病発生状況

久万町年度別伝染病発生状況