データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

久万町誌

二 明治維新以後

 明治四年廃藩置県により久万は松山県となった。国は教育の中央集権化を図ることと、「邑に不学の戸なく家に不学の人なからしめん事」を願い、予算の裏付けのないまま明治五年八月学制を頒布した。
 明治五年九月、政府は「小学教則」を公布したが、当時の地方の実態にそぐわずあまり実施されなかった。教則によると、上下ニ等の小学を設置し、各々を八級に分け、各級の期間を六ヶ月とし、毎週日曜日を除き一日五時間、一週三〇時間の課程であった。
 明治六年二月の報告によると、久万の学校は、
 校名(石鉄県・第三中学区) 一五番小学
 設置場所 第一七大区一一小区久万町 旧郷学校
の一校であった。当時教育行政推進のために、学区取締の制度を置いたが、明治五年ごろ久万地方の学区取締は、友近 載であった。政府は、一小区一小学の設置を強く指導したが経済状態や住民の意識もあってなかなか実現しなかった。
 明治七年一二月、県(愛媛県)が国に届け出た学校のうち久万町関係の学校は次の表のようであった。
 明治八年一月、県は「学制」に基づき「進級試験制度」を明確にするため「小学生徒試験仮規則」を定めた。これは、一定の学力がつき試験に合格しなければ進級できない事をきめたものであって、なかなか厳格なものであった。
 明治九年、愛媛県は、教育指導行政の徹底を図ろうとして、派駐訓導聯区監視・学区世話掛等の制度を置いた。第一四大区浮穴部のうち久万山の派駐訓導武市義道の巡回日誌があるので引用しておく。(明治九年一○月の巡回日誌)
   十月二十二日午前八時久万町ヲ発シ同十一時五十分ニ二名村恒久学校ニ至ル、里程五十丁、生徒出席ノ者三十三名皆下等八級生ナリ、教師ノ請ニヨリ生徒ヲ授業スルニ学力進歩ノ者アルニ依テ仮試験ヲナスニ、下等八級生ノ六級マデニ進級スベキ者七名、依テ教師ニ告グルニ卒業試験速ニ施行スベキ事ヲ以テス、先ヅ其レ迄ハ仮ニ六級へ進級イタシ置クベシ、但シ免許証書ハ学区取締等出席セザルヲ以テ、卒業試験更ニ施行マデ与フベカラズト言ヒ置クナリ、次ニ世話掛リ二名出頭イタスニ付内外学事ノ盛衰ヲ説諭シ、又本校生徒ノ出席少キヲ以テ父兄ヲ懇説督責スベキ事ヲ云フ、
  同二十三日臼杵村日新政二至ル、(中略)
  同二十四日父野川村谷川校ニ至ル、(中略)
  同二十五日露峯村露峯校ニ至ル、(中略)
  同二十六日大川村大川校ニ至ル、(中略)
  同二十七日大川校ノ授業ヲナシ、(中略)
  同二十八日十二時迄ハ同校ノ授業ヲ傍観指授ス、
  同二十九日野尻村久万分校ニ至ル、(中略)同夜久万町ニ帰宅ス、
 引用が長くなったが、詳細に読むと当時の学校の不備がよく理解できる。また、当時の道順も分かって面白い。
 県では、明治六年一一月に「校則及生徒心得」を定めたがあまりにも簡単で学校現場では十分でなかったので、各々の学校では独自の規則を作成し県の承認を求めるようになった。明治九年五月に、学区取締斉院敬和から提出された久万学校規則(一等訓導武市義道が中心となって策定)が今も残っている。県は、各学校の校則を検討し、その不統一をなくするために、明治九年一〇月「愛媛県小学規則」を制定した。学校を上・下等小学とする。おのおのを八級に分け、毎級六ヶ月とした。しかし地域によって差が生じたため、明治一一年三月下等小学の教則に、甲種(都市型)と乙種(農村型)を定めた。更に、六月年間就学の困難な子女に適用するために丙種教則を設定している。
 明治一一年七月、郡区町村制度となる。久万は上浮穴郡の郡役所がおかれた。初代郡長は秋山静であった。明治一一年学区取締廃止、明治一二年、派駐訓導・学区世話掛廃止等により教育行政の権限は郡長に移行した。
 明治一三年四月から昭一五年二月の間教員委嘱制度(町村と個人の契約制度)が行われたが大変不評であり、教員の質も低下した。
 明治一八年八月「教育令改正」を公布し、教育を受ける最低年限(義務教育)を三年間と定め、戸長が町村の教育事務を司ることとなった。また授業料の微収を明確にした。
 明治一九年三月、学校令(太平洋戦争終了までの教育の基盤となった)が公布された。小学令では、小学校を尋常小学校(四年)高等小学校(四年)の二段階とし、尋常小学校を義務教育とした。ただし、地域の状況によっては、三年以内の小学校簡易科(明治一〇年簡易小学校と改称)を設け尋常小学校に代用し得るものとした。当時の久万における学校は次表のとおりである。
 明治二二年、大日本帝国憲法(欽定憲法)発布。
 明治二三年、教育二関スル勅語(教育勅語)発布、教育勅語は、国民教育、国民道徳の基本とされ、国家の精神的支柱として以後日本の教育において重大な役割りを果たすこととなった。
   朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我力臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ済セルハ此レ我力国体ノ精華ニシテ教育ノ渕源亦実ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓発シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ広メ世務ヲ開キ常ニ国憲ヲ重シ国法二遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公二奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ独リ朕カ忠良ノ臣タルノミナラス又はテ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン
   斯ノ道ハ実ニ我力皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ具ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト具ニ拳々服膺シテ咸共徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
   明治二十三年十月三十日
     御 名   御 璽
 各学校には、教育勅語の謄本と明治天皇の御輿影(写真)が下賜(配布)された。学校の儀式では、校長が教育勅語を捧読し、その間児童は頭を下げたままで、あげることは許されなかった。平素は「奉安殿」と呼ばれる建物に保管されており、その前を通るときには最敬礼をしなければならなかった。取扱い上、粗相があると処罰されたし、自ら生命を断った人がいるとも言われている。国の教育方針の具現化のために、人物や物語が教材化されたが、特に二宮金次郎は銅像として学校の庭に建立された。
 明治二三年、小学校令が改正され簡易小学校は廃止された。当時の久万町における小学校の設置状況は次の表のようであった。なお、明治二○年上浮穴郡立久万高等小学校が設立されたが、明治二五年町村立久万高等小学校として、久万町字水口に設立されている。
 明治三三年小学校令の改正、尋常小学校の年限が四年になり、二年制の高等小学校の併設を定めた。尋常小学校に二年制の高等小学校を併設した学校を他と区別するために、尋常高等小学校と呼んだ。当時の上浮穴郡の尋常高等小学校と高等小学校の設置は次の表のようであった。またこの時の改正により、義務教育の授業料の徴収が廃止された。
 明治三六年、小学校令の一部が改正された。明治一九年より実施されていた教科書の検定制度が改められ「国定制度」となった。明治三七年はじめての国定教科書が発行され、名実共に教育の中央集権化が完成した。
 明治四〇年三月、小学令の一部が改正され尋常小学校の修業年限が延長され六年となった。
 大正時代には特記すべき改革はなかった。ただ、教授法等については、個別教育とか自由教育(ドルトンプラン)等全国的な動きはあった。
 昭和初期には、経済恐慌が相次ぎ貧困家庭が増加し、就学補助の強化策が打ち出された。給食が開始された地域もあった。個性尊重と職業指導が重要視されると共に郷土教育も盛んに行われた。
 昭和六年の満洲事変、昭和七年の上海事変、昭和一二年の日華事変と大陸における戦局が拡大し、義務教育をはじめ、各方面にその影をおとすようになった。主なものを挙げると、
   昭和一二年 八月二四日 「国民精神総動員実施要綱」
   昭和一六年 三月 一日 「国民学校令」公布
        一二月 八日 太平洋戦争開始
   昭和一九年 六月三〇日 学童疎開
         八月一〇日 国民学校高等科児童勤労動員
   昭和二〇年 八月一五日 終戦
のようであった。
 国民学校は、初等科六年、高等科二年計八年とした。教科目は、国民科(修身・国語・国史・地理)、理数科(算数・理科)、体錬科(体操・武道)、芸能科(音楽・習字・図画・工作)、実業科(農業・工業・商業・水産)であった。国民学校の目的は、『皇国の道に則りて初等普通教育を施し、国民の基礎的錬成を為す、』ことであった。
 太平洋幟争の半ばになると国内の生活物資は不足し、戦場でも武具が不足した。そのため「勝つまではほしがりません」を合言葉として様々な事が行われた。旧制中学以上の工場への動員、馬の飼料集め、松の根(松根油をとる)掘り、旧家の床下の土あつめ(硝石をとる)、木材の搬出、木炭の搬出、運動場でのサツマイモ作り等の作業が多くなった。食料不足を補うために、山菜とり、イナゴとりなども実施された。
 以上は、昭和四六年、愛媛県教育委員会発行「愛媛県教育史」に依って記述した。以下、各学校、教育機関について詳述する。

明治八年時の愛媛県内小学校一覧

明治八年時の愛媛県内小学校一覧


明治二〇年時の高等小学校設置区域および位置表

明治二〇年時の高等小学校設置区域および位置表


明治二〇年時の尋常小学校・小学簡易科設置区域および位置表

明治二〇年時の尋常小学校・小学簡易科設置区域および位置表


明治二三年・同二五年の小学校校数位置表

明治二三年・同二五年の小学校校数位置表


明治三五年尋常高等小学校・高等小学校一覧

明治三五年尋常高等小学校・高等小学校一覧