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久万町誌

8 青年学校

 実業補習学校規定により、「小学校の教科を終え農業に従事する者に対し、農業に関する知識、技能を授くるとともに国民生活に須要なる教育をなす」をもって目的として、昭和七年に公民学校が開設された。課程は予科、本科、高等科にわかれ、(女子は高等科を除く)男子部は予科二年、本科二年、高等科四年、女子部は予科二年、本科三年の修業年限であった。学校は尋常高等小学校に併設されていた。昭和一〇年四月、青年学校令が公布され、農業補習学校、青年訓練所が統合された形となって青年学校が生まれた。この青年学校は、男女青年の心身を鍛錬し、徳性を涵養するとともに、職業および実際生活に必要な知識、技能を授
けるのを目的としたもので、普通科、本科、研究科、専修科の四科に分
けられていた。
 同一四年四月には、青年学校は義務教育となり、男子生徒は服装も軍人に準じたものを着用し、軍事訓練が重視されるようになった。毎年、連隊区司令部からの査閲も行われ、軍隊の予備化の色が濃厚になった。
 昭和一六年には、夜間制が改められて昼間制となり、校舎も独立し、
 専任の青年学校教諭も置かれることになった。
 「父二峰青年学校沿革史」によれば、「昭和一六年二月五日の夜間、県視学が突然来校された。午後九時をすぎかけたころ『当青年学校は、夜間でも一時間以内に全村の青年を非常召集できるそうだがそれは事実か』と問われた。
 学校長(光川繁光)は『やってみましょう。』といって非常召集をかけた。召集用紙三枚を用意し、伝令係を小隊長のもとへ走らせた。小隊長は班長に連絡し、やがて、完令軍装をした青年たちが寒風をついて運動場の闇の中に集結した。その間わずか一時間足らず、一四㌔㍍もある長い村だけに視察官も驚き、激賞した」とのことである。
 昭和一九年三月、畑野川・直瀬青年学校が合併し、川瀬青年学校になった。同年、明神、久万青年学校も合併した。
 第二次世界大戦が次第に苛烈になるにしたがい軍事訓練はますます強化され、全く軍隊の予備校化した。また男子青年の中には徴兵検査を待たずして軍隊に志願するものや、工場等へ強制徴用される者などが出て、青年学校もほとんどが女子ばかりとなり、ひどいところでは男子二、三名という状態であった。