データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

久万町誌

三 太平洋戦争終戦以後

 第二次世界大戦による敗戦の結果、我が国は政治、経済、礼会、文化のすべての面で、深刻な改革を要求されることになったが、教育もその例外ではなかった。社会生活の窮乏と混乱と価値観の倒錯とが、教育の秩序を破壊し、教育への信頼を失わせる結果を招いた。一方、教育によって、国家を再建しなければならないという決意が、多くの人々の心の底にわいてきたことも事実であった。
 戦後、政府と国民が第一に努力した点は、まず戦時中強化された異常な戦時教育体制を取り除くことであり、第二は新しい平和的文化国家の基礎をつくる民主的教育の基礎を確立することであった。
 終戦直後の教育行政にとって最大の課題は、戦争遂行のための教育体制と実践をできるだけ早く平常の教育にもどすことであった。
 その一は、三四〇万人の勤労学徒を正常な学校での授業に復帰させること。
 その二は、学校の授業を平常の教科授業に復帰する措置をとること。
 その三は、帰心矢のごとく帰る日を待っていた疎開学童の復帰を急ぐこと。
 その四は、国防軍備等を強調した教材、戦意高揚に関する教材、国際親和を妨げるおそれのある教材など、平和的文化国家の建設に合わない教材を削除すること。
 その五は、剣道、教練、柔道など軍事教育と関連の深い教育を禁止し、体錬科教授要目を改正、児童の自発的要求を考慮し、球技などに重点を置くように改めること等であった。
 なお、講和条約締結後の独立まで、連合車の占領下に置かれたため、マッカーサー最高司令官は、いくつかの指令を発したが、その主なものは次の四つであった。
 その一は、「日本教育制度に対する管理政策」である。基本方針として、軍国主義及び極端な国家主義思想の普及を禁止し、軍国主義教育の学科及び教練はすべて廃止すること。議会政治、国際平和、個人の思想及び集会、言論、信仰の自由など基本的人権の思想に合致する諸概念の教授及び実践の確立を奨励することなどが示された。
 その二は、「教育及び教育関係者の調査、除外、認可に関する件」である。そのためにまず戦時中、軍その他の圧力により教壇を去った人々が復帰するとともに、不適格者として教職から除外された者、つまり追放(パージ)された人も多数にのぼった。
 その三は、「国家神道、神社神道に対する政府の保証、支援、保全、監督ならびに公布の廃止に関する指令」である。それまで日本国民には国家神道、神社神道が強制され、その教理や信仰がゆがめられて日本国民を戦争に導いた軍国主義や極端な国家主義の宣伝に利用されていた。政府がこれらを援助したり、監督したり、公布したりすることを禁ずるとともに、他の宗教と同様に神道も学校教育から除外することを命じたのである。
 この指令の実施によって、それまで学校の精神的中心と考えられていた御真影奉安殿、英霊室、忠魂碑、校内における神社、神棚などがいっさい取り除かれたのである。
 その四は、「修身、日本歴史及び地理停止に関する件」であって、すべての学校で修身、日本歴史及び地理の課程をただちに中止することを命じたのである。
 以上のような諸指令の実施により、日本の軍国主義と極端な国家主義につながる教育体制を排除したあとに、どのような新しい教育体制を樹立するか、これが占領政策の第二の課題であった。このためアメリカからストダード博士を団長とする米国教育界代表二七名からなる米国教育使節団が昭和二一年三月来日し、約一か月滞在して、マッカーサー最高司令官に報告書を提出した。マッカーサー元帥はこれを受け入れ、これを基本として日本の教育の再建を指導することにしたのである。
 その中には、後に教育刷新委員会が取り上げた日本民主化のための諸方策、すなわち義務教育の延長、六・三・三・四の学制、教科書制度の改善、教員養成制度の刷新、国語問題の合理化などの重要な提案が含まれていた。
 文部省は、昭和二〇年九月一五日、新日本建設の方針を発表し、新教育の考え方や方法の徹底をはかった。
 新教育方針は、国体の護持、軍国的思想及び施策の払拭、平和的文化国家の建設を目途として、「教養を深め、科学的思考力を養い、平和愛好の念を篤くし、智徳の一般水準を昂めて、世界の進運に貢献する。」という基本方針であったが、将来の体系的建設計画は問題として残された。
 前田多門文相は、敗戦の原因は精神面にあったとして、新教育はあくまで個性完成を目標とすべきであること、個性の完成には自由の存在が必要であること、自由は責任観念に裏づけられねばならぬことなどを強調し、「民衆が責任を持ってする正しい民主主義政治は、正しい政治教育の基礎なくしてはとうてい行われうるものではありません。今まで閑却せられていた公民科の復活強化を図り、ことに、その内容において面目一新を期したいと存じております」と述べている。
 この方針に基づき、道徳教育も含め、社会科を新設することとなった。教育の実践分野では、昭和二〇年秋ごろから、生徒自治会、討議法、自学法、分団教育法、共同学習など新教育の芽ばえが見えてきたが、昭和二一年に「新教育指針」を編集し、全国各学校に配布した。
 戦後日本の教育改革を具体的に審議したのは、内閣に設置された教育刷新委員会であった。第一回の建議は教育の理念及び教育基本法に関すること、学制に関すること、私立学校に関すること、教育行政に関することであり、教育基本法の基本構想、六・三・三・四の学制、九年の義務教育、私立学校法人とすることなど、これまでの教育制度を根本的に刷新する内容のものであった。
 新憲法は、昭和二一年一一月三日に公布された。明治憲法にみられない画期的なことは、「教育を受ける権利」を規定し、教育の機会均等、義務教育とその無償について定めたことである。
 戦前の教育の基本は、教育勅語によるとされていたが、戦後は教育勅語の取り扱いについて疑問がもたれるようになり、教育の基本は国会の意志で定めるべきであるということとなり、教育基本法案が第九二国会に提出され、昭和二二年三月三一日、法律第二五号として公布された。
 この教育基本法は、新憲法の精神にのっとり、教育の目的、方針を定め教育の基本事項についての原則を明らかにしたもので、道徳的、倫理的性格をもつものであるが、これまで勅語、勅令によって律せられてきた教育行政が、国会の定めた法律によるようになった点において特に意義深いものがある。
 なお、教育勅語については、昭和二三年六月一九日、衆参両院の教育勅語などの排除あるいは無効の決議によってその騰本は回収されることとなった。
 昭和二二年三月三一日、教育基本法と並んで六・三・三・四制と九年間の義務教育を定めた学校教育法が成立し、同年四月一日から新学制による学校教育が発足したのである。