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久万町誌

3 幼児教育

  ア 幼児学級の開設について
 山間へき地で文化環境に恵まれず、しかも多くの家庭が農林業や共働きで、夫婦が共に家をあけるため、人間形成の上で大切な幼児の基本的なしつけや保育に欠けることや、学齢に達した幼児が無理なく学校生活に適応できにくいなどの条件のもとに就学前の教育の大切さが叫ばれ、幼児教育開設の運動が昭和二七、二八年ごろから婦人会を中心におこった。
 昭和二八年、畑野川で婦人会が中心となって、当時、畑野川小学校長であった大野常治郎らの協力を得て、郡内で初めて実験学級を開いたのが幼児教育の草わけである。
 九月四日から二組編成で週一回開園された。施設は、小学校の教室を利用し、必要経費は全て、婦人会の負担でまかなわれていた。
 明神地区では、昭和二九年、明神小学校に大野常治郎校長が赴任するとともに、さっそく幼児教育の重要性を強調し、婦人会や就学一年前の幼児の親たちが協力して、幼児学級を開設する運びとなった。
 入学前の幼児全員七一名を収容し、小学校の先生が兼務で、小学校の教室を利用して保育を開始するようになった。
 同年九月一日には、野尻幼児学級も開設された。久万町婦人会野尻支部長八木千鶴ら役員が中心となり、幼児教育の必要性を訴えた。一足先に開設していた明神幼児学級を婦人会全員が見学に行った。そのため、ますます開設の気運が高まった。
 開設資金を作るために、婦人会が山の下刈り、映画興行等を行い、それで得た利益金を幼児学級の経費に充てた。昭和二九年九月一日に久万小学校長や、地元町会議員らを迎えて、開設式を行った。
 野尻公民館で、月曜日と水曜日に大字上野尻、大字下野尻、大字菅生の一部の就学一年前の該当児を午前中保育した。
 野尻と期を同じくして、久万幼児学級も開設された。婦人会久万支部長草地光子ら役員が中心となって、久万小学校の南校舎の教室を使用して保育することになった。
 当時、久万町には、一・二年前より私立の保育園があったが、就学一年前の一部の幼児しか収容できなかったので、婦人会が中心となり、全該当児が保育できる幼児学級を開設するよう、運動がさかんに行われたわけである。
 久万小学校長であった西内清己は、婦人会の趣旨に賛同し積極的に協力した。その年九月四日、久万小学校講堂において、婦人会が中心となって開級式を行う運びとなった。
 土曜日の午後と、日曜日の午前中に小学校の授業日でない時を利用して保育を行った。経費は、婦人会及び父母の会の会費によってまかなわれた。
 直瀬においては、婦人会や直瀬小学校長小椋秀雄らが中心となり、昭和二九年九月より実験学級として、年間一〇日間開設した。小学校の体育室を利用して保育した。
 父二峰地区においても、同じく地域の婦人会が中心となって、他の幼児学級と同じように気運を高め、露峰、二名幼児学級を月二回開設する運びとなった。
 久万町婦人会久万支部は、幼児学級の運営を行っていたが、やがて経営上のいきづまりを感じはじめた。そこで、幼児学級の主体性においても問題点があるため、幼児学級の主体と運営を町当局に移管するよう嘆願した。町としても、重要なことなので検討に検討を重ねた結果、幼児教育の重要性を認め、町立の幼児学級として昭和三〇年に発足させた。各小学校長が兼務監督することになった。
  イ 幼児教育の充実について
 昭和三四年三月、町村合併により、久万町、川瀬村、父二峰村が新久万町となった。同年七月、久万町立幼児学級運営要項を決定し、全幼児学級を同じように運営することになった。(町費保母のこと)
 昭和三二年頃より、独立園舎建設の気運が父母の会を中心に高まり、町当局に陳情するとともに、父母の会も設備備品の整備等に力を入れ、ますます幼児教育が盛んになってきた。
 明神小学校の廃校舎を利用して、久万幼児学級独立園舎の建設の運びとなった。久万小学校北側に、昭和三三年一二月に着工し、翌三四年一月一〇日、落成式を行った。こうして、野尻・久万両幼児学級を統合して保育できるようになった。
 つづいて、畑野川、直瀬、明神、二名、露峰と全幼児学級の独立園舎が竣工した。
 昭和三四年、久万幼児学級が全日制となった。やがて、公立幼稚園として移行する気運が高まり、昭和三五年四月一日久万町立幼稚園となった。
 昭和三七年に、明神、二名、昭和三九年には他の幼児学級も全日制となり、本格的に幼児教育ができるようになった。更に、昭和三七年一〇月より、二名幼児学級が二名へき地保育所となり、二年保育が実施されるようになった。以後、三九年に明神、四一年に露峰、四二年に畑野川と、厚生省所管のへき地保育所に切り替えられた。
 また、昭和五三年には、明神、畑野川、直瀬が県教育委員会の指導のもとに、文部省所管の幼稚園に切り替えられた。
 こうして、幼児教育は学校教育の中に位置づけられていったのである。
  ウ 幼児教育の発展について
 町内幼児教育の充実、発展を図るため、久万幼稚園長小田慶孝を中心に、幼稚園、保育所主任の手によって、町内共通の年間指導計画を作成したり、年間指導計画に基づいて研修会をたびたび開催したりして、保母としての資質を高めるよう努力してきた。
 久万幼稚園は、昭和四七年より二年保育となり、全町的に就学二年前の幼児全員が保育を受けることができるようになった。また、その年から久万町学校給食センターが設立されて、町内小中学校の生徒と同じ給食を全幼稚園、保育所の幼児も食べることができるようになった。
 幼児教育への保護者の経費負担を軽減するために、昭和四八年度より幼稚園、保育所ともに、生活保護の規定により保護を受けている世帯及び、その年に納付すべき町民税の所得割が非課税となる世帯には、入園料、保育料を減免できるよう措置した。以後、度々改定を行い、現在では、町全体の約八〇%の世帯が減免の対象となっている。
 このような施策によって、久万町においては現在、幼稚園、保育所への就園率は一〇〇%である。
  オ 家庭教育について
 幼児教育の進展に伴って、父母の学習の機会が多くもたれるようになってきた。昭和五一年より、各幼稚園、保育所において、年間一〇回の家庭教育学級を、各地域の特色、実情に合わせて計画・実施し成果を上げている。
 昭和三九年には、家庭の教育力の回復を目的に、毎月第三日曜日を「家庭の日」と定め、親子の対話をはかりながら、よりよい家庭作りに取り組んできた。
 更に、急激な社会環境の変化に対処していくため、生涯学習の必要性が強調されはじめ、家庭教育は、あらゆる教育の基本であるという観点から、国の補助事業として昭和五七年より「明日の親のための学級」を開講し、若い世代を中心に学習してきた。また、昭和六二年からは「働く親のための学級」を開講している。
  力 今後の課題
 現在、幼児をとりまく環境も、過疎化に伴う幼児数の減少、夫婦共働きの家庭の増加、家庭の教育力の低下などさまざまな問題が山積している。
 こうした中、幼児教育の方向も、初期の学齢に達した幼児が無理なく学校生活に適応できるようにとの考え方とは違って、豊かな人間性の基礎作りの教育として、幼児を中心としたものへと変わってきた。町当局においても、学校教育、社会教育の両面からより幼児教育の充実と、発展に力を注いでいかなければならないという立場で諸施策を講じている。

幼稚園・保育園の沿革 1

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幼稚園・保育園の沿革 2

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幼稚園・保育園の沿革 3

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幼稚園・保育園の沿革 4

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幼稚園・保育園の沿革 5

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幼稚園・保育園の沿革 6

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