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久万町誌

一 太平洋戦争終戦まで

 往古はばくぜんとして知ることはできないが、菅生山大宝寺に俳人小倉志山が発起して建てた霜夜塚(芭蕉翁没後五○年祭を記念して建てたもの)や、二名森田愛宕大師堂の嘉永二年(一八五○)に俳諧の同志がつくった句額などから想像すると、古い時代からこの町では俳諧などを中心とした文化活動が活発であったようである。
 藩政時代の各地域では、若連中とか若衆組などの組織があって、男子は全員一五歳になると酒一升と豆腐一箱を持ってこの組織にはいり、祭事や娯楽などの諸行事にたずさわっていた。この若衆組にはいると、一人前と認められていたようである。
 寺子屋がいつの時代から始まったか判然とせぬが、幕末から明治初期にかけて開設されていた寺子屋は上浮穴で三九か所あり、久万町には父二峰に三、久万に六、川瀬に四、明神に四の計一七か所あったようである。この寺子屋では中流以上の男子が、読み、書きを中心に儒学などを習っていたが、この寺子屋に通えない人たちは、通っている人たちから夜間、又習いをしていたようである。老人の思い出話によると「私らは、紙を買ってもらえないので、おぜんに灰を入れて書いては消し書いては消しして習った」ということである。
 明治三二年には、久万読書会がつくられており、規約、出席簿などから察すると読書活動も活発であったようである。
 明治三九年の九月、文部省から、青年団体は通俗教育上効果的であるとして、その設置、指導、奨励の通牒が出された。そこで、この若連中などの組織も村長、学校長、総代などの有志によって、青年会として再編成され、一二月から翌年の四月までの農閑期に夜学会が開かれ、小学校の教員より、修身、算術、書き方、地歴などを習っていた。
 明治四一年から四三年にかけて、青年は上浮穴青年会に加入し、だんだん形を整えていった。
 大正四年、内務、文部両次官から、青年修養の機関としての青年団体の本質が明らかにされ、画期的な措置が講ぜられるようになった。更に七年・九年に訓令が発せられ、団体の自主的な活動による発達を望むという指導方針が打ち出された。即ち、小学校長が団長を兼ねていた団体がほとんどであったが、団長はなるべく団員の中から選び、小学校教員などの幹部は顧問とし、団員の最高年齢を二五歳までとすることなどが主な内容であった。
 大正一五年、男子に比べてはるかに遅れて、女子青年団体に関した訓令が初めて出された。女子青年の修養機関としての本旨と指導方針を明らかにし、男子青年団とだいたい同じような組織と運営の要綱が指示された。明治の末期から大正にかけて各地で結成されていた処女会の組織も女子青年団となり、やがて、男子に青年団と合併した。その他色々な教育団体があったが、青年団と国防婦人会について概略を記述しておくことにする。