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久万町誌

3 青少年教育

  ア 青年団
  はじめに
 戦後、青年たちは、民主国家の建設をめざして各地域における公民館活動の推進力となり、男女同権の立場に立った青年団を大字単位に結成した。やがて、旧町村単位に青年団が結成され、封建制度の打破をうったえ、明るい町づくり、村づくりを目的とする地域に青年団として発足した。
 昭和二一年(一九四六)二月五日、上浮穴郡連合青年団の結成式が旧父二峰村で行われた。郡連青を建て直すとともに新しい日本の建設のために、青年が立ちあがるべきだという熱意にあふれたものであった。さらに、県連合青年団にも加盟し、活発な活動が行われた。
 昭和三〇年代になると、農村青年をとりまく社会情勢が大きく変動していった。日本経済のめざましい発展によって、第一次産業と第二・三次産業との間に著しい所得格差が生じ、急速に青年の離村が相ついだ。このような、農村から都市への『地すべり的移動』とも言える現象は、地域青年団を支えていた農業青年の減少を生じ、青年団組織の再編成を余儀なくするなど活動の転機をもたらした。
 昭和三四年、町村合併により、久万、川瀬、父二峰の単位青年団は、久万町青年団協議会をつくって運営していたが、昭和三六年、『久万町青年団』を結成した。以来、活動の休止・再発足・統合を経て、現在は明神・久万・畑野川・直瀬・父二峰の五分団で構成している。
 郡連合青年団は、当初、県連合青年団に所属していたが、昭和三八年、県連青が思想的に偏しており、討論の末、正常な活動ができないとして脱退し、解散した。昭和四〇年八月、上浮穴郡青年団協議会を組織したが、歩調がそろわず、翌年一〇月、またも解散した。しかし、久万町青年団は、同月、昭和三八年に発足した愛媛県青年団連合会に単独で加盟した。昭和四二年には、上浮穴連合青年団が再び編成され、愛青連に加盟し、上部組織の混乱期は終わった。
   活動内容
 昭和二〇年代は、青年相互の親睦をはかり、教養を深めるために文集を作り、歌ごえ活動を盛んに行った。特に、夏のスポーツ大会、冬の演劇活動が盛んになり、青年団の慣行的行事となった。また、各種の研修会や弁論大会では民主主義についても大いに論じられていた。
 久万町青年団協議会の時代には、政治問題の研修や文化面の活動、スポーツ活動等に力を注ぎ、各単位団は一丸となって組織の充実に努めた。
 昭和三六年、大野弘氏(明神分団)が、久万町青年団の初代団長になり、団則を決定した。各単位団訪問や第一回久万町青年団スポーツ祭・第一回駅伝大会等が始まった。翌三七年には、演劇発表会が開催され、各単位団で研究した文化活動の成果を発表し合った。また、一一月には、女子青年団員研修会も実施された。
 昭和三九年には、久万町青年団祭が開かれ、仲間同志の自由な意見発表や音楽発表が行われた。同年に町団にはじめての機関誌が発刊された。
 昭和四○年には、愛媛駅伝へ初参加し、昭和四六年には、県駅伝やクラブ駅伝で二部へ上がることがさわがれ、久万町青年団の名前が県下に広まった。スポーツ活動が盛んになり、愛媛スポーツ祭・県クラブ陸上競技大会へ『久万クラブ』名で参加し、数々の試合経験を積んだ。
 昭和四七年には、スポーツ活動と学習活動を並行させようと年間五回の久万町中央青年講座を実施し、青年リーダーづくりに努めた。しかし、社会の進展は、青年の連帯感や意識にまで変化をもたらし、団員数が減少した。そこで、翌年には大幅な団則改正が行われた。
 昭和五一年には、新しく優勝旗と団旗を購入した。
 他郡市の青年団とも交流し、昭和四四年には重信町青年団と、昭和五二年には、姉妹公民館である伊方町の青年団とも交流し、青年問題について研修した。また、国内研修として、昭和五二年に、大分県を訪ね山香町青年団と交流した。昭和五四年には、熊本県・沖縄県の青年団を迎えて研修活動を行った。
 昭和五七・五八年には、県内のフォークグループを集めて、『久万高原サマーフェスティバル』を催した。あいにく、両年とも雨に降られたが久万町青年団の意気のあるところを見せた。
 昭和六一年に、子供会と合同キャンプを行い、青少年の健全育成につとめた。
   課 題
 青年を取り巻く環境の変化・価値観が多様化している現在、青年団活動は大きな転機を迎えているといえる。個人の活動を中心に多種多様な内容を持つ行事が要求されている。
  イ 青少年育成センター
 青少年を非行から守り、健全に育てることを目的として、昭和五八年四月一日に発足した。
 数年前より、青少年の非行が、戦後第三のピークといわれるほどに激増した。第一のピークは、終戦直後の混乱期で、物のない時代であった。第二のピークは昭和三六、七年のころであった。昭和二五年に起こった朝鮮戦争以来、特需景気もあって、日本全体が経済的に大きく躍進しはじめた。が、三二年には経済も落ち込み『なべ底景気』といわれるまでになった。三五年に池田勇人が総理大臣に就任し、三六年に国民所得倍増計画を決定した。高度成長路線がスタートするや、貧富の差が大きくなっていった。その結果『貧乏人は麦飯を食え』ということばまで生まれてきた。三〇年ころから、青少年の間に広まりつつあった、無軌道・不道徳な行為が、三五、六年ころから上昇しはじめ、貧富の差の拡大に伴って大幅に、青少年の非行が増加していった。
 第三のピークは、消費は美徳であるといわれ、使い捨ての時代を経、国民の九割が中流意識をもつようになってからである。特に、昭和五六、七年ころより青少年の非行は享楽的、暴力的となってきた。
 五五年には栃木県や徳島県で、小・中学生による殺人、三重県では中学生が集団で一一人の教師に暴力をふるう事件が起きた。神奈川県では、中学生が両親を金属バットで撲殺するようなことまで起きた。こうした事件は、年と共に増加し、五八年入ると、家庭内暴力、校内暴力にとどまらず、横浜で一〇人の少年が浮浪者を襲撃して死亡させるというところまでエスカレートした。このように凶悪化・狂暴化すると同時に、シンナー遊びや麻薬による事件をはじめ、性非行なども急増していった。
 こうした青少年の非行を、なんとかして防止しようとして誕生したのが「青少年育成センター」である。
 青少年の非行は、今や楽観視・傍観視できる状態ではない。全国的な潮流を背景にして、いつ、この平和郷でも問題が起きるかわからない。問題が起きてからではおそい。次の世代を背負って立つ青少年を非行から守り、健やかな成長を願って、町内の社会教育諸団体、教育関係諸機関の関係者で委員会を組織し、有害環境の除去、家庭教育への援助と教育相談活動などを強力に推進していこうということになった。おりしも、一〇月に、町内でも、いじめによる猟銃発砲事件が起こり、この運動により多くの期待が寄せられることとなった。
 私たちのふるさとを、健全で明るい青少年が育つ、住みよい町にするために、家庭教育を基盤として、家庭・学校・社会が相提携し、それぞれが、それぞれの分野を分担しながら、全人的な人間形成を図る目的で、積極的な活動が進められている。
 六三年度青少年育成センター事業方針並びに事業実績は、次のとおりである。
  一 青少年健全育成の活動
   ① 健全で明るい家庭づくりの推進
   ② 青少年団体育成活動、青少年の地域活動への参加推進、グループリーダーの養成、子供会の育成
   ③ あいさつ運動の推進
   ④ 啓発活動の推進
  二 青少年の非行防止活動
   ① 補導活動の推進
   ② 関係機関団体との連帯強化
   ③ 環境浄化活動の推進
   ④ 青少年の相談に関すること
  三 公民館を中核とした愛護班・PTA活動の推進
  四 事 業 実 績

在村青年の減少状況(青年数/人口)

在村青年の減少状況(青年数/人口)


旧町村青年団長

旧町村青年団長


久万町青年団協議会長

久万町青年団協議会長


久万町青少年育成センター組織図

久万町青少年育成センター組織図


事業実績

事業実績