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久万町誌

4 婦人教育(婦人会)

  ア はじめに
 大正一二年の関東大震災後の人心の不安や動揺とともに激化しつつある思想問題を背景にして、同年一一月に「国民精神振興ニ関スル詔書」が発せられ、各団体が提携し国民精神の高揚に当たることになった。
 文部省は、社会教育局を新設し、それらの運動を推進する一方、「公民教育講座」等を奨励した。文部省は、婦人教育、母親教育について力を入れ始め、昭和五年一二月、「家庭教育振興ニ関スル訓令」を発し、全国の婦人団体の連携と婦人の教養を高め、家庭の振興、家庭生活の改善に寄与したいということから、府県の連合体を単位とした「大日本聯合婦人会」を組織した。
 満州事変後、婦人団体も戦争遂行という国の方針によって統制され、各町村に支部や分会を持つ大日本国防婦人会が組織された。
 本町においても、昭和一二年に各旧町村単位に組織された。第二次世界大戦に入ってからは出征軍人の見送り、遺家族の慰安や手伝い、慰問袋の発送などの活動を行った。服装は、白エプロンに白地に黒で「大日本国防婦人会OO支部」と書いたタスキをかけたものであった。
  イ 活動内容
 敗戦とともに国防婦人会は解散し、新しく地域婦人会として衣がえをして発足したが、戦後の混乱期でもあったため見るべき活動も行われないまま数年が過ぎた。昭和二三、四年ころから、婦人会で農村の封建性の問題が取り上げられ、研修するようになった。特に、家族の人間関係、なかでも嫁と姑のあり方が問題視された。昭和二七年に川瀬村において実験婦人学級が設けられ、婦人層の関心を呼び、翌年、村の各地域で開設されるようになった。やがて、他町村においても婦人層を対象にした学習の場が設けられるようになった。また、昭和二七年ごろから全町的に幼児教育の必要性が強調されるようになった。就学前の教育として、幼児教育の充実を先ず婦人会が中心になって働きかけた。昭和二八年には畑野川婦人会が、当時畑野川小学校長であった大野常治郎氏らの協力をえて郡内ではじめて試験的に幼児教育を実施した。その後、各地区で実施し、昭和三○年旧久万町では町立の幼児学級としてはじめて発足させている。
 昭和三〇年末、愛媛県に食生活改善運動推進協議会が設けられた。郡内には支部が置かれ、この運動が強力に推進された。この運動は、食生活の改善を通じて暮らしを豊かに、そして明るくしようとするねらいのもとに進められた。
 昭和三四年、町村合併によって、旧町村婦人会は協議会を結成し、新方向への態勢をととのえた。翌三六年には、明神、久万、川瀬、父二峰の旧婦人会は発展的に解散して、久万町婦人会を組織した。そして、第一回久万町婦人大会を一月に開催した。その後婦人会活動では、時代の進展とともに、それにマッチした内容のものを取り上げて研修してきた。健全な消費者のあり方、青少年健全育成、花いっぱい運動、交通安全運動、健康問題などについて学習を進め、その実践化を図ってきたのである。
 昭和三八年、生活改善運動推進協議会を生活運動推進協議会と改称し、個人の知識や努力では解決できない生活課題解決のために、生活の主張、生活と経済、社会連帯感の三点を強化する運動を開始した。この運動は婦人会活動と表裏一体の形で進められた。
 昭和四二年には、支部活動に重点がおかれ、一学級一課題をスローガンに婦人学級での研修が推し進められた。婦人教育の底辺拡大をめざした活動であった。環境美化運動の一つとして、各支部ごとに河川清掃を行ったり、他団体との連携体制づくり、リーダー研修会、貯畜推進や家計簿の記帳と共同購入など年間を通して学習活動を進めたりした。
 昭和四七年からは、役員会とあわせて婦人大学を開催した。変化の激しい社会に対応するための広い視野と感覚を学び、指導者としての心構えを強め、自主的活動が活発になるような婦人会をめざした。
 昭和四八年、現在の町民館が建設され、それまでには見られなかった充実した一般教養の学習が始まった。また、婦人大学などの一般教養講座の他、料理講習、レクリェーションも町民館中心に行われ始めた。婦人大会場も久万公民館、役場から町民館へと移ってきた。充実した施設を利用して個々の婦人の教養を高めるとともに、よりすばらしい婦人会をつくるために現在も活動が続けられている。
 昭和五一年、婦人会の大きな目標であった生活の簡素化を軸とした生活改善運動を婦人会活動としてとりあげ、積極的に推進してきた。その一つとして、新しい生活改善による会費制結婚式の推進を挙げることができる。これは、現在大きな成果をあげている。また、昭和四二年に行われた成人式から、服装のコンクール化の傾向があるとし、服装の簡素化を婦人会活動としてとりあげている。現在もその改善については婦人会活動の課題として大きくとらえ、積極的に取り組んでいる。
 昭和五五年、青少年の健全育成はまず親子の話しあいから、とそれまで取り組んできた「家庭の日」の見直しを始めた。昭和四一年五月五日に決定した家庭の日を毎月五日に変えて実践化を図るための運動が進められたのである。町づくりは、健全な青少年の育成なくしては考えられない。その基盤は家庭にあり、家庭の中での婦人の役割には大きなものがある。婦人会活動の中で、特に、「家庭の日」の推進が大きな成果をあげるように現在も活動を続けている。
 昭和五八年、会員の増強と健康、コミュニティーづくりの一環として、各支部活動のなかでソフトバレーボールの普及に力を注いできた。その成果を第二二回町婦人大会で披露すべく、初めて、ソフトバレーボール大会を開催した。大会は、笑いあり、激励ありの楽しいものとなり、参加者からは、今後もぜひ続けたいという声が多く聞かれた。これをきっかけにソフトバレーボールは年々盛んになり、会員は増加し、人間関係づくりに大いに役立っている。
 最近は、産業経済の多種多様化に伴ない、就労婦人が多くなってきている。したがって、学級活動への参加が難しくなり、婦人団体活動にさまざまな支障をきたしている。また、行事の増大、活動分野の拡大により役員の負担が過重となって、役員になり手がないという課題かある。更に、趣味活動を中心とした自主的サークル活動の増加により、好きな活動のみに参加する傾向もある。今後、こうした自己志向から共存志向に目を向けていくための指導が必要とされている。

昭和62年度収支決算書

昭和62年度収支決算書


久万町婦人会会長・副会長一覧表

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