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久万町誌

15 社会体育(体力つくり)

  ア 体力つくりの町宣言
 戦後の日本は、敗戦の混乱を乗り越え復興への道をひたすら歩み続けた。その上、朝鮮戦争は「金へん景気」とか「糸へん景気」とか言われる特需景気をもたらした。更には、昭和三〇年(一九五五)から始まった大型景気は「神武景気」、昭和三四年(一九五九)からは、「岩戸景気」、昭和三八年(一九六三)からは「オリンピック景気」、昭和四一年(一九六六)からは「いざなぎ景気」と言われた程、次々と大型の好景気が続いた。こうした経済の高度成長は、企業の設備投資、雇用の拡大、生産の増大へとつながっていった。そのかげでは昭和二五年(一九五〇)に総就業人口の四八%、一七二〇万人もいた第一次産業に従事していた人々が、昭和三五年には三三%の一四二四万人、昭和四五年には一九%の一〇〇七万人と激減していった。
 都市の過密化、農村の過疎化はこの高度経済成長によってもたらされたものである。昭和三五年には専業農家は一〇%を割り込むまでになった。それまでの農業の生産性の向上は、化学肥料と農薬の大量投入、機械化によってなされてきた。農村の過疎化と機械化は「三ちゃん農業」とか、「機械化貧乏」ということばを作り出した。
 ことここに至るまでに政府はもとより、各町村においても種々活性化の方策を試みてきた。社会体育の振興もその一つである。
 昭和三二年(一九五七)四月、文部省は「地方スポーツ振興について」という通達を出し、「社会体育指導委員」の設置を要請してきた。これには太平洋戦争によって中止となった「東京オリンピック」を誘致しようという意図も合まれていたかもしれない。現に、三四年(一九五九)に東京オリンピック開催を決定している。オリンピックはさておき、この社会体育指導委員は、県と市町村が同時に委嘱状を出して委嘱する制度で、久万町でも一〇月一日付で五名の委員を委嘱した。この指導員の協力のもと、徐々に町民の間にスポーツ熱が高まっていった。
 昭和三六年(一九六一)六月、スポーツ振興法が制定された。この法律によって、社会体育指導員の制度が変わった。県からの委嘱は廃止され、市町村が委嘱することとなった。このため、久万町でも三七年四月に「社会体育指導員に関する規則」が定められ、社会体育指導員の身分・職務内容等が明確になった。つまり、市町村の教育委員会に属し、非常勤で、各地域のスポーツ振興の一翼をになうこととなった。三八年(一九六三)には、女性の指導員も加わり、六名となった。東京オリンピックが近づくにつれ、町内のスポーツ熱は急速に高まり、ソフトボールやバレーボールの愛好者も増えていった。
 一方、過疎化しさびれて行く久万町を三八豪雪が襲った。町民は一様にうちひしがれていた。そんななかで『東京オリンピックに郷土から、日本の代表選手が参加する。われわれも行政にばかり頼らないで、なんとか活力を出そう』と、愛媛駅伝(昭和二六年に始まる)第一三回大会に、二名青年団が参加した。成績は全参加チームの中で中の上位だった。これを手はじめとして、三九年には「父二峰青年団」が参加した。四〇年からは「久万町青年団」として出場、五一年からは「久万体協」(久万町体育協会)として出場することになった。
 昭和三九年(一九六四)、いよいよ、東京オリンピックが開催される年を迎えた。郷土出身の片山美佐子選手が出場するとあって、町民の東京オリンピックヘの関心が高まると共にスポーツ熱も盛んになった。正月あけ早々に、久万町は「町民体操」を創作、発表した。この体操は、町民のだれでもが、どこでも手軽るにできるように工夫されたものである。農家の人は畑で、田んぼで、家庭の主婦は家の中で、職場にある人は職場でと、気易く取り組めるように考案したものである。指導は、父二峰中学校教諭の菊池淳が、作曲は森永妙子が担当した。ソノシートを町内の各職場に配布すると共に、有線放送で午後三時には町内へ流すことにした。手軽るさと気易さがうけて、県下でも話題になった。
 一〇月一〇日、いよいよ東京オリンピックの開幕。それに先だち、メインスタジアムにオリンピック期間中燃え続ける聖火、ギリシャのオリンピアで太陽から採火された聖火が久万町を通過する。その聖火リレーに、町民の中学生以上が多数参加する。しかも中学時代放送陸上競技大会で、女子砲丸投げに優勝した経歴の持ち主である片山美佐子が槍投げで出場する。久万町民のオリンピックに寄せる関心は、いやがうえにも盛り上がっていった。
 昭和四〇年(一九六五)になると、野球やソフトボール、バレーボール、卓球など愛好者が、種目別で大会を開くまでになった。青年や婦人の団体も、定期的に競技会を開催するまでに体制が整ってきた。
 そんなとき、文部省から二か年間のスポーツモデル町村として指定を受けることになった。そのため、各種のスポーツを町民が楽しめるよう、体育備品の充実を図るとともに、町内の各学校の体育施設を社会体育のために開放するなど条件整備も進めていった。また、町村合併後初めて町民運動会を開催し、町ぐるみの体力づくり運動への大躍進を遂げる足がかりを作った。
 昭和四二年(一九六七)には、各地域公民館単位のスポーツ活動が活発になり、種目ごとの公民館対抗競技会が開けるまでになった。旧久万地区では、明神、久万上・中・下、野尻の五つの組に分けて、早朝ソフトボール大会が開かれるようになった。また、NHKの巡回ラジオ体操会も受け入れることができた。
 昭和四三年(一九六八)には、『自分の健康は自分で守る』という積極的な保健意識を高めようと、「体力つくりの町」を宣言し、「体力つくり推進協議会」を結成した。「体力つくりの町」の宣言文は次の通りである。
        宣  言  文
   幸福な生活の基本的条件が、健康な心身にあることは、万人の認めるところであります。久万町では、町民の総意により「体力つくりの町久万町」を宣言し、町民一致協力して、健康を守るため保健栄養改善、社会体育振興に協力するものであります。
    右、宣言する。
     昭和四三年七月二二日
               久万町体力つくり推進協議会
 この「体力つくりの町」の宣言は、久万町議会でなされたものである。
 以来、町内の関係諸機関、団体が一体となって、保健・栄養・体育レクリエーションの三つの柱のもとに、町民総参加で「体力つくり活動」を強力に推進している。
 昭和四五年にはバドミントン愛好会が誕生し、スポーツの種目が徐々に増していった。一〇月二五日、全町民が一致協力して体力つくりに邁進した積年の努力が認められ、全国組織である「体力つくり国民会議」から議長賞を受賞した。さきに述べたように学校施設を体力つくりに開放したために、室内競技が活発になってきた。種目も着実に増し、愛好者もふえた。
 一方では、屋外種目愛好者から「グランド確保」と「夜間利用」の声が次第に高まってきた。これには社会体育専用のグランドが確保できれば理想的だけれども、いきなりそれもできず、当面学校のグランドを利用することはできないかと検討を加えつつ、学校当局と協議を重ねた。その結果、試みとして久万中学校のグランドに夜間照明施設を設けた。学校行事やグランドコンディションの関係から、使用許可、不許可は、教育委員会事務局が学校と連絡をとったうえでする。その他これに関わる事務的なこともすべて教育委員会事務局が行うということにした。
 社会体育の指導員も一〇名に増員した。スポーツ愛好者が急激にふえたことと、それぞれの地域にあって底辺を広げると共に、住民のニーズに応えるためであった。
 昭和四八、九年には、夜間照明施設を各地域に設置していった。明神小学校、久万小学校、二名小学校と、二年間に三校のグランドに夜間照明が設置された。ここにコミニュティースポーツの開催が可能となった。このうえは、一日も早い専用グランドの確保をということになった。八月にはNHKの巡回ラジオ体操会が久万中学校のグランドで開かれるまでに、体力つくり熱が高まっていった。
 更に、昭和五○年一〇月四日、その活動の成果が認められて、「体力つくり日本一」の町として「内閣総理大臣賞」を受賞した。四五年の受賞以来、五年目にして最高の賞を受けたことが、より大きな励みとなって、町民のスポーツ活動、体力つくり活動はより広まり、深く浸透していった。五一年一月二六日には、町民待望の「体育協会」が発足した。夜間照明施設も畑野川小学校、直瀬中学校、父二峰中学校に設置され、これで町内の全域が整った。各地で夜間に野球やソフトボールを楽しむ姿が見られるようになった。町民総参加でのソフトボール大会も開催できた。この年から社会体育指導員が一名増員され一二名となった。体育協会に加盟している一二団体、一二種目の競技に、最低一名の指導員が付くことができるようになった。
 昭和五一年は、久万体協主催による種目別の競技会が、第一回大会としてスタートした年でもある。小・中学生から高齢者まで含めたマラソン大会や、小・中・高校生や青年による駅伝競走、地域公民館対抗のバドミントン、卓球、ソフトボール、バレーボール、サッカー等、愛好者によるものとしては庭球、ゴルフ、野球、幼児から一般までを対象とした柔・剣道、スキー等、多種多様な大会が開かれた。ことここに至るまでには、社会体育指導員制度ができてから、わずかな人数で町内各地へ出向いて、献身的に講習会を開いて指導し、技能の習熟とルールに精通させる努力があったことを見のがすことはできない。やがて、町民のスポーツ熱は、社会体育専用のグランド確保へ情熱となって燃え上がっていった。
 昭和五二年になると、町民のスポーツ熱は以前にも増して盛り上がり、毎月一〇日を「スポーツの日」と定めた。一方、菅生の東国に、「久万運動公園」を造ることが本決まりとなった。
 運動公園は、町民の期待に応えることのできる総合的なものにしていこうということで、数年かけて候補地をさがしていた。幸い、上浮穴総合開発公社が、「久万町森林組合木材加工場」用地と並んで確保していた土地があり、それを譲り受けることができた。そこを造成し、数年がかりで整備充実していくことになった。用地は山林でなだらかな傾斜地であった。植林されており一〇年生の杉の幼齢林であった。まず、自衛隊に頼んで第一期の用地造成をしてもらうこととなった。起工式は九月二二日に行われた。総面積五万九六六三平方メートルを三期に分けて造成することにした。また、いろいろな施設も年次をおって整備していくこととなった。なお完成年度を六〇年度とした。
 昭和五三年度は、久万町合併二〇周年の記念すべき年であった。この記念すべき年に合わせるように、県民体育祭松山大会が久万町で開催されることになった。造成後日も浅く十分に整備されてはいなかったが久万運動公園を中心に、一〇月二九日、熱戦がくり広げられた。社会体育指導員を中心に各種目の選手強化を図り、懸命に頑張って、各種目に健闘し、久万の面目躍如たるものがあった。なかでもバドミントン男子とテニスの混合ダブルスの優勝は、特筆大書すべきことがらであった。なおこのバドミントン男子は、五四年にも優勝し、二年連続優勝を果たした。
 五六年には、子供から高齢者に至るまでの全町民の体力つくりの拠点である久万公園が完成した。多目的グランドに全天候型テニスコート、自然をそのままに取り入れた遊歩道とそれを活用したトリムコースである。多目的グランドにはバックネットを張り、観覧席には芝生が植えられ周辺にはツツジなどの庭木も植えられている。テニスコートは、周囲がフェンスで囲まれており、全天候型だから雨がやむと、しばらくすれば使えるようにできている。
 グランドが手に入りテニスコートもできた。次は体育館が欲しい。今のように各学校の体育館だけでは手ぜまである。など各チームから不満が出はじめた。なんとか、体育館が欲しいという話があちらこちらから上がってきた。折も折、九州の由布院で自然休養村センターの落成式があり、町長が出席した。そこに海洋センターの体育館があった。県や関係機関から、B&G財団の援助で体育館が建つという話は聞いていた。が、海に全く関係のない久万で、海洋センターの体育館など建ててもらえるはずがないとあきらめていたが、由布院の町の中に海洋センターの体育館があったのを見逃さなかった。町長の帰町後活動が始まった。町を上げての誘致運動を始めたのである。
 昭和五七年に入るとB&G財団の海洋センター誘致へ向けての運動が一層活発になった。体育活動の方も、剣道がより大きな飛躍を遂げた。今まで県下のいろいろな大会で、また四国大会で、あるいは全国大会で優勝、ないしは三位以内入賞と輝かしい成績を収めてきた。そこで、民間活力の導入によって、近県少年剣道大会を「久万少年剣道優勝大会」として開催することになった。県下から、また県外からも、腕におぼえのある強剛が集まって来た。明神、久万小・中の剣道父母の会と、久万剣道会が中核となり、成功裏に第一回大会を終えた。
 年が改まり、五八年には、いよいよB&G財団による海洋センター建設が本格化し、久万公園のグランドに隣接した山林を買収して敷地造成、続いて建築が始まった。用地買収や造成等で町も相応の負担はあったが、建物をはじめ設備一式の費用をB&G財団が負担してくれることになり、秋に着工することとなった。
 五九年五月三〇日にはB&G海洋センターの落成式が盛大に行われた。冷涼の地といわれている久万町で、ビニールで覆ったプールの建設のおかげで、三月末には水泳が可能となった。一〇月でも泳ぐことができるとあって、大変な人気である。体育館は、バレーコートが二面とれ、それに柔剣道場もある。六月一日から開館したが、早くも使用許可願が殺到し、体育館をお互いが譲り合って使うということで、チーム間の調整に汗だくだった。プールやテニスコートは、町外の人も多く利用している。体育館は、夜間は町内のチームが使用しているが、夏季休業中などの場合は、昼間、町外のチームが利用することもある。
 同じ年、久万町スポーツ顕彰規定が制定された。この規定は、スポーツに貢献し、功労のあった個人及び団体、または、スポーツ界で優秀な成績を収めたものを、長く顕彰しようという目的で作られたものである。
 社会体育専用の体育館が落成した記念すべき年、一〇月に開催された県民体育祭松山大会で、男子のバレーボールが初めて優勝した。
 昭和六〇年の一〇月には、県民体育祭松山大会が、五三年に次いで久万町で行われることになった。前回と違って、グランドや体育館が整備されているので、久万公園を中心にして行った。この年はソフトボールが初優勝した。他の種目も優秀な成績を収めた。
 昭和六一年は、久万町に体育協会が結成されて一〇周年の記念すべき年である。過去を顧み、未来への飛躍を目ざして、「体協一〇周年のあゆみ」を編集した。一〇月の県民体育祭松山大会では、ソフトボールが二年連続優勝を果たし、花を添えた。また、久万公園に約二〇〇〇人の町民が参加して、町民体育大会を開き、記念行事を行うこともできた。
 苦節一〇年というが、本当によくここまで発展したものである。社会体育指導員の活躍と町民の協力の成果である。同時に、町民のパワーのすばらしさを改めて見直した年でもあった。
 昭和六二年の第四二回沖縄秋季国体に、久万町出身の宮脇昭彦がラグビーに(数年連統出場)、女子バレーボールに井上美紀、恭子の姉妹、新体操に淀恵の四名が、愛媛県の代表選手として出場した。宮脇、淀の両選手は高校で身につけた技量であり、井上姉妹のバレーボールの基礎技能は、中学時代に培われ、高校、大学で磨かれたものである。久万町にとって大変名誉な年であった。
 昭和六三年、第二一回県民体育祭松山大会では、女子のバドミントンが初優勝した。高齢者のクロッケー一般の部も準優勝に輝き、年々、各種目での好成績が記録されている。こうした記録をエネルギーとして、ますます発展していくことを祈っている。
  イ 体育協会
 久万町では、昭和五〇年、積年にわたる町民総参加の体力つくり活動が認められ総理大臣表彰の栄に浴することができた。これひとえに指導者と町民の積極的な協力の賜物である。しかし、この受賞は、町民の体力つくり活動をより広くより深く推進し、全町民の健康と幸せを築き上げるための今後の指針であり出発点でもあった。このことにより町内有志指導者を結集し、久万町の体力つくり活動を飛躍発展させるために「体育協会」を結成することとなった。
 昭和五一年一月一六日、各種目の中心的指導者を発起人として準備会を開催。同年一月二〇日、町全般における体育諸事業を効果的に展開するために、企画と役割を分担する機関として体力つくり企画委員会を開催。一月二六日、各種目の代表者及び久万町体力つくり推進協議会より推薦された学識経験者をもって理事会を構成し、待望の「体育協会」が結成された。
 協会の目的及び事業等は次のとおりである。
   目 的
   本会は久万町体力つくり基本方針に沿って、全町民の体育スポーツの振興を図るとともに体力の向上に寄与することを目的とする。
   事 業
  一、全町民の体育スポーツ振興に関すること。
  二、各種大会、講習会に関する行事の実施。
  三、各スポーツクラブの強化発展と連絡融和。
  四、体育スポーツ思想の普及啓蒙。
  五、その他本会の目的達成に必要なこと。
   組 織
   本会は町内の各種スポーツクラブに所属する者及び本会の趣旨に賛同する町民をもって組織する。
   本会に次の種目協会を置く。
   野球協会・ソフトボール協会・バレーボール協会・テニス協会・卓球協会・陸上競技協会・サッカー協会・スキー協会・剣道協会・バドミントン協会・ゴルフ協会・柔道協会
 体育協会の結成によって、各種目別大会は各協会の役員により企画・運営されることになった。更に町の協力機関としての体制も強化され、町民総参加の体力つくり活動は大きく一歩前進した。
  ウ 久万公園
 久万公園は、スポーツ、レクリェーションの需要の高まりに対応すべく、昭和五二年都市計画事業の一環として運動施設を主体とし、しかも修景施設を重視した都市公園として整備された。
   一 施設の概要
  ○敷地面積    五九、六六三平方㍍
  ○多目的グランド 一四、四一五平方㍍ 
           バックネット、観覧席、夜間照明、便所
  〇テニスコート  全天候型四面、練習ボード付コート一面、夜間照明
  ○児童広場    わんぱくランド
  ○管理棟     一八九平方㍍
           事務室、更衣室、便所
   二 年度別工事費及び工事内容
  昭和五二年度  工事費   九、五一五、〇〇〇円
          工事内容 陸上自衛隊により二一、八七五平方㍍を整地
  昭和五三年度  工事費  四八、〇〇〇、〇〇〇円
          工事内容 公園用地 三九、九〇〇平方㍍購入
  昭和五四年度  工事費  七七、三一二、〇〇〇円
          工事内容 陸上自衛隊により多目的グランド及びテニスコートの三二、二〇〇平方㍍を整地、水路
  昭和五五年度  工事費  六二、○○〇、〇〇〇円
          工事内容 路面石採取、多目的グランド一四、四一五平方㍍を整地
  昭和五六年度  工事費  五二、四七六、〇〇〇円
          工事内容 テニスコート、多目的グランドの内バックネット、芝生観覧席、外周フェンス
  昭和五七年度  工事費  五五、二二〇、〇〇〇円
          工事内容 休憩施設(管理棟)、駐車場、便所、砂場、テニスコート夜間照明
  昭和五九年度  工事費  五六、〇〇〇、〇〇〇円
          工事内容 多目的グランド夜間照明
  昭和六〇年度  工事費  一五、〇〇〇、〇〇〇円
          工事内容 わんぱくランド
  エ B&G海洋センター
 海洋センターは、海洋性スポーツ・レクリェーションを中心とした実践活動によって、青少年をはじめとする住民の体力向上と、豊かな人間性つくりを目指し、ブルーシー・アンド・グリーンランド財団により、四億八〇〇万円で建設された体育施設である。施設の概要は次表のとおりである。
 建設の条件は、三年間を経過して、その管理運営や利用状況が優秀であれば、無償で譲渡するということであった。
 オープン以来、久万町が管理運営にあたり、各種の体育活動を推進してきた。
 上浮穴郡社会人バレーボール大会やB&G会長杯中学女子バレーボール大会、町内卓球大会、町内縄とび大会等をはじめ、バドミントン教室や卓球教室、レクリェーション・バレーボール教室、空手教室、バレーボール教室、年齢層に応じた水泳教室等を開催してきた。これらの体育活動は、体育協会や体力つくり推進協議会が提携して推進してきたのであるが、予期以上の成果をあげることかできた。
 また、B&G財団主催の各種行事にも積極的に参加し、大きな成果をあげている。
 「少年の船」では、毎年小学生が三名程度沖縄へ、中学生が二名程度グアム島へ海洋訓練を受けに出かけている。「若人の船」には、毎年三名程度町内の青年が参加している。「若人の船」は年によって行き先が違う。ある年はオーストラリア、ある年は中国、またアメリカやカナダへ行く年もある。夏休みを利用して、小学校高学年で行っている『海洋クラブ員交流会』は、県下五か所の町村から集まるが、これにも多数参加している。
 五九年からの参加であるが、参加した者は『全国から参加していた人たちと親交を結ぶことができた。また、集団訓練や海洋体験は、人生でのいい勉強になった』と感想を述べており、その評価は高い。
 海洋センターの育成士も、センター育成士(海洋センター全体の管理にあたる資格者)一名、特殊育成士(海洋センターのプール管理にあたる資格者)一名、二級育成上(海洋センター育成士の捕助的な役割をする資格者)一三名の多くを数えるまでになった。その氏名は表のとおりである。

体育協会役員(昭和63年4月1日現在)

体育協会役員(昭和63年4月1日現在)


B&G施設の概要

B&G施設の概要


所長及び育成士名簿

所長及び育成士名簿