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久万町誌

五 収蔵される作品

 現在のところ久万美術館が所有する作品=館蔵品は、全て井部先生からいただいたものだけである。そのいただいたコレクションは、洋画(八四点)・日本書画(一三七点)・陶磁器(九八点)、合わせて三一九点にのぼる。
 日本書画の書の部には、伊予の三筆といわれた伊藤子礼・明月・蔵山らの豪放な書があり、他に米山・誠拙など伊予の地で広く親しまれた宗教家・武家・学者らの作が、数多く並んでいる。日本画の分野でも同様に、江戸時代以降の地元の作がそろっている。松山藩の武士・吉田蔵澤の墨竹や松山藩の絵師・遠藤広実の久万山絵図(三巻)は、その中心になっている。一方、陶磁器も伊予の国の江戸以降の作を集めたもので、大洲の柳瀬焼・五郎焼・松山近郊のなぞの窯・瀬戸助らしき作、川内の松瀬川焼・則之内焼など、伊予陶磁史の中で特に話題を呼んだものを集めている。そのため、コレクションに興味深いストーリーがついているものが多い。
 しかし、何んと言っても久万美術館の中核となって、展示室で注目をあびるのは洋画であろう。
 洋画の部門には、全国的にもAクラスの作品が並んでいる。日本の洋画史は、明治維新の少し前から始まった。当時ヨーロッパから伝わってきた洋画作品に接した絵画関係者の中には、その描写の迫力に圧倒され、自ら独学に近い形で油絵具を習い始めた者もいた。そんな一人が高橋由一であり、五姓田芳柳(二世)であり、浅井忠らであった。久万美術館には、彼らの作品から揃っている。この後に続いたのが黒田清輝であり、久米桂一郎・鹿子木孟郎であった。彼らは自分でヨーロッパに渡り、当時印象派と呼ばれた人たちから大きな影響を受け、野外の光の中で動く色彩に心をひかれていった。この画家たちを外光派と呼び、この後ずっと日本の洋画界の中心になっていった。
 しかし、明治の終わりごろから、高橋・浅井・黒田・久米らのアカデミズムに対抗する人たちが出た。それはヨーロッパの後期印象派や、マチスらの野獣派の影響を受けた人たちで、今までの絵画の考え方からすっかり抜け出し、個性を重んじた大胆な表現をする人たちであった。それが万鉄五郎・村山槐多・長谷川利行らで、久万美術館には彼らの貴服な作品が揃っている。彼らは日本の洋画史の中で大切な働きをしたにもかかわらず、長い間ほとんど認められることがなかった。しかしこのあばれん坊たちの作品を、井部先生は重要な位置におき、ちゃんと集めておられたわけである。
 昭和六一年一二月、松山市内で初めて井部コレクションの洋画を全部並べた時見て下さったブリヂストン美術館学芸課長の阿部信雄先生は、「井部氏のコレクションは、アカデミズム作家に混じってアバンギャルド作家(万鉄五郎や村山槐多のこと)たちの作品が、ちゃんと入っている。これは井部氏が日本洋画の歴史を全て知っていたのでできたことだ。個人でこれだけのことをした方は、全国的にも珍しい」と、大変高い評価を下さった。