データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

久万町誌

一 斉秀 和尚

 ○ 斉秀の略歴
 斉秀和尚は、市の坪(松山市余土)に生まれ、太山寺快秀師について出家し、室岡の蓮花寺の住職をしていた。大宝寺の快仙師が元文五年(一七四O)三月二四日遷化し、その後を継いで同年一二月四日、住職となった。
 大宝寺は藩政時代には寺禄一五○俵を得ており、古くから多くの名僧が行脚の途中しばらくとどまり、あるいは住職となり、一大伽藍をなしていた。これら名僧の中に大宝寺中興の師として元禄・享保のころの雲秀、秀仙、快仙があり、ついで斉秀がある。
 斉秀は日夜経典に精魂をかたむける一方、篤学多才、俳諧を究め、地方文化の向上にも努めた。
 寛保二年(一七四二)、松山の宗匠小倉志山によって、寺内に芭蕉塚を建てさせ、また、俳誌「霜夜塚」を刊行した。
 また、放生川(久万川)に総門橋をかけるなどの公益事業も行ったため、寺運はますます盛んとなり、斉秀の徳を慕い、信ずる者の数は、しだいに増していった。
○ 久万山騒動と斉秀
 寛保元年(一七四一)の久万山騒動は、享保一七年(一七三二)の大飢饉後九年目のことで、飢饉の痛手がじゅうぶんに回復していない時期に起こった。
 久万山には困窮の村々が多く、その上、物価は高く、久万山特産の茶の値段が下がったため、銀で納める年貢に大変苦しんだ。そこで寛保元年三月八日、下坂すじ、八か村の百姓が歎願のため多数松山城下へ向かった。途中久米村で代官関助太夫に説諭され、要領をえないままに引き返した。
 このことにつき奉行穂坂太郎が衛門以下、郡奉行など数名の役人が久万町村に来て百姓と話し合ったが、歎願の趣はかなえられなかった。
 そこで、七月五日に土佐境、久主村の農民が蜂起し、日野浦村まで抑し寄せた。これに下坂の村々が合流し、大洲領内へ逃散(中世および近世に、農民が領主から税金などをしぼりとられるので、それに対する消極的な反抗手段として他領に逃亡すること)した。『藩に訴え出ても事態は有利に展開するとは思われない。無益な抗争をするよりは土地を捨てて大洲領へ逃げよう』という消極的な一揆である。松山藩の家老以下の諸役人はあわてざるを得なかった。
 藩にとっては初めてのことであり、体面もあり、収入も減る。 
 土地は荒れ地となり経済的にも耐えられぬことであった。その上、藩主定喬(当時二六歳)は江戸より帰国の途中である。留守をあずかる家老以下の役人は、なんとかして穏便にすませたく気が気でない。そこで郡奉行吉岡平左衛門以下の役人が急いで追いかけ「願いの筋はじゅうぶん聞き届けるから、早々にもどるように…」と説いたが応じない。奉行久松庄左衛門も証札を示し、「どのような願いであろうとも聞き届け、約束を果たすであろう」とねんごろにさとすが聞こうとしない。
 八日、露峰村にこの一揆の一行が進んだときには下坂のほか、北坂、口坂の久万山三坂ことごとくが立ち上がっていた。一二日は薄木村(臼杵)に達した。大洲領の代官が意見してもいっこうに聞き入れない。一三日には内子村に進んだ。一五日には大洲の中村若宮まで進んだ。この時の人数は二八四三人であったという。
 役人もいれかわりたちかわり、いろいろと説諭を試みるがいっこうに耳をかさぬ。「ただ私どもは大洲の加藤遠江守様にお願いしていっさいをおまかせするつもりです。もし加藤様が聞いてくださらねば、どこまででも行ってお願いする覚悟です」の一点張り。ついに大目付片岡七郎左衛門が使者となって、家老連判の証札を示して前のように説いたがこれにも応じなかった。
 そこで七月一八日、代官関助太夫は菅生山大宝寺の方丈、斉秀を尋ね、「なにとぞ穏便に治めてほしい」と申し出た。方丈は、「このたびの大事はとうてい私どもの扱いでは治まらぬ」と固く辞退したが、代官のたっての願いに、「ともかく理覚坊をつかわしてようすを見、そのうえで去就をきめましょう」と答えた。
 奉行久松庄左衛門、代官関助太夫は、重ねて方丈を尋ね、「この上は方丈じきじきにお出かけくださって…」と懇願した。方丈は、「これはご無体なおおせでしょう。さきに事の重大なるを知り、再三辞退したのを、たってとお頼みあるから、一応使僧を送り、その結果なにかよい手がかりでもあればともかく、さもなくば手を引くが恨みに思わぬように、と念を押した上で理覚坊つかわしました。はたせるかな望みなしと知れた今日、重ねて折衝を望まれるはご無体に過ぎましょう」「いや無理は承知の上でのお願いでござる」「なるほど、無体をご承知でのお望みとあれば沙門の身(出家のこと)として、覚悟をせねばなりますまい。もはやなにごとも申されまするな。進んで事件収拾に乗りだすことにいたしましょう。ついては、私の考えを申し述べます。百姓どもの願いの筋についていかが考えられましょうや。彼らの願いの中にはいろいろのことが含まれておりましょう。それを『ことごとく聞き届けつかわす』というおことばが私にはがてんが参りません。私が参りましてもそのような不用意な放言では事は落着いたしません。誠意をもっての応対ならば『一〇か条の願いあれば五か条だけ聞き届ける』というが至当かと存ぜられまするが…」庄左衛門は、
 「一揆を起こしてまでの願いの筋というは容易ならぬことゆえ、拙者一存にては計らいかねる」という。院主色をなし、
 「お覚悟がたりますまい。一命にかけての忠義と考えられるなら、一存に決められることではありませんか。このことが決定されぬかぎり、私も参るわけにはいきません。さすれば、大洲侯御計らいという大事にたちいたりまするぞ。ご決意あって返答なさるなれば、私もそれを力に出発いたしましょう。もし果たさずばそれまでのこと、私も当山に立ちもどる面目はありません。万一にも百姓をつれ帰りましたる節、一〇か条のうち五か条お許しあればよし。もし不可能のときは、百姓どもの目の前で切腹めされよ。それを百姓どもへの申しわけとして、私もこの地を去りましょう。あとはいかようになりましょうともいたしかたありません。無体と知って頼まれたご両人の忠義もたち、拙僧もいずこに居住いたしましょうとも、世上への申しわけもございます」
と誠意あふれるばかりの話に、庄左衛門、助太夫のふたりは、
 「誠に恐れ入ったるご心底、ただただ感服のほかはござらん。我々の一命を捨てておためとなるならば、ただいまにてもしわ腹かき切ることいとやすきことなれど、かえって迷惑になるかと思われてそれもかなわず。仰せのようなご心底なれば一〇か条中五か条、いかほど重い願いの筋なりとも、命にかけてもお許しをたまわるよう取りはからいましょう」
と答えて帰った。斉秀は一〇か条のうち五つとはあまりにも漠然としているので、あとから次のような文章を両人に送った。
  一、すべて御領分お仕置方にかかる重い願いの筋ある場合は三つの中二つ。
  一、都市にかかわる願いの筋ある場合も右と同様。
  一、村々だけにかかわる願いある筋は一〇か条のうち五か条。
  一、出訴の罪は問われることなく、万事拙僧に免じ許さるること。
   右の通り御決定願い候。されば早々に出立し、拙僧一命にかけ、国家忠義のためずいぶん働き、召し連れ帰山申すべく候。右の通り御免にても一同納得申さず候わば、拙僧もただちに出国と心底決定いたし候。各様にも大守公へ忠功と思し召し、思い発してただいま決定なさるべく候。
 両人からは、右の四件については「いささかの相違もない」旨の書面が届いたので、斉秀は七月二四日大洲領へ向かった。
 中村町で百方説得の結果、八月一二日、万事斉秀に任すことで話がまとまり、久万町にもどり一泊、翌一三日それぞれ自村に帰った。斉秀は早速書面で、
 「百姓ども歎願の筋につき、お聞き届け・申し渡しは、家老水野佶左衛門様自ら御登山なくては一同安堵しないであろう。」
といって送った。
 上席家老水野佶左衛門、同遠山要、郡奉行吉岡平右衛門、代官関助太夫、元締高橋太二右衛門、手伝林嘉平太、同山本勘右衛門の一行が久万町法然寺に来て、各村代表者に対し申渡しをした。久万山の風雲が平静になったのは、実に三三日目であった。
 この事件で百姓の要求がどんなものであったか、その詳細はわからないが、結末は次のようである。
  一、御上より百姓願いの筋、もっともに仰せいだされ、あらましおかなえくだされ候につき、水野佶左衛門より御免書、村々受け申し候。
  一、救米三千俵を久万山じゅうへくだしおかれ、百姓どもありがたく頂戴いたしたこと。その配分については御高へ半分割とす。
  一、菅生山大宝寺に御褒美として一五〇石くだされたこと。
  一、殿様、江戸より御帰国になり騒動を聞かれ、国の仕置きよろしからずとして、家老奥平久兵衛を生名島へ、紙方改奉行穂坂太郎左衛門を二神島へ、物頭脇坂五郎衛門を大下島へ流罪としたこと。
  一、大洲の殿様、江戸より御帰国、種々お聞き及びの上、久万百姓に対し飯米を渡さざりしことをご立腹になり、家老加藤玄蕃遠島となりたること。
 ○ 斉秀の偉功
 この寛保元年の久万山百姓の逃散は、有名な松山騒動の中心人物である奥平久兵衛の失脚の直接原因となっている。
 奥平久兵衛の、八月一六日、生名島流罪申渡し書には、
   「時節柄不相応の饗応を受け酒宴興に長じ、その上常に賄賂をとり、ひいきを以て邪知の者の申し分を信じ、裁許正道これなく、権威を以て下の痛みを顧みず候ゆえ、下賤の者恨みを生じ、この度久万山騒動の儀も出来し、既に家の大事にも及ぶべきほどの儀に相成候段、甚だ以て不忠の至りに候。之によって扶持方とり放ち、遠島申付候」
 いうまでもなく、この事件は久万山農民の一大事のみならず、松山藩政の一大事として大洲藩政にまで影響したことと、傑僧斉秀和尚のとった処置はひとしく世の認めるところである。これにより松山藩の内政は改められた。
 かくて斉秀は藩公からも重く見られるようになり、また久万山農民からの信頼もとみに厚くなった。
 藩公より八月一九日、寺領三〇俵を寄付。つづいて、同元年八月二二日、寺格太山寺之通仰付、諸願一判御目付支配を仰付被、寺領並びに脇坊一一ヶ寺両修復供米一五〇俵寄贈になっている。
 同月二五日、寺領下し置かれ候に付冥加・寺のために総代二ヶ寺宛年頭御礼申し上げ度、願いにより仰付、あわせて月並御礼上の儀申出候処前々の通り差し上げ候様、依頼おおせいでくだされた。
 同二年四月二八日、海陸御祈祷、こんご表立ちて仰せ付下被候様、願いにより御仰付られた。
 延享元年(一七四四)九月二三日、畑野川、直瀬、七鳥、三ヶ村風倒木(松)六〇本願いによりくださる。
 同二年一二月、東之坊預り音無社の池にて槻(朽木)二本願いにより下さる。
 寛延二年(一七四九)八月六日、従嵯峨御所慈心院之室永代兼帯之儀を免許された。
 同三年二月三日、願により謙項、修行同二四日、右此度初めて執行につき郡方米五〇俵借用、御代官、丸山孫三右衛門之を相談候。
 同四月二日、右修行に付、御奉行同道遣被候。
 同三月十日、御紋付御挑燈式張御寄付。
 宝暦六年(一七五六)四月一七日、御幕四張分五星御紋付御免。
 同七年一〇月二五日、菅生村持来之畑山、奉行より境改めあり。
 同九年七月五日、庫裡大破に付き、材木六〇本くだされた。
 宝暦九年一二月五日斉秀寂。
 以上は久万山騒動以後の藩と大宝寺の関係を「松山藩寺譜」の中から抜粋したものである。また寛保元年(一七四一)以後土佐農民が次々と大宝寺に逃散した記録もある。
 これらはいずれも大宝寺の威信のあらわれとみてよいであろう。