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久万町誌

二 山之内 仰西

 ○ 略 歴
 山之内仰西は、山之内伊勢守光定の曽孫で、庄左衛門光則の子である。
 山之内家の先祖は、伊予国越智郡、能島(今の大島の内)の城主で、贈正五位村上三郎左衛門義弘である。承久の乱(一二二一)以後、河野氏の一族・土居氏・得能氏等の勤王党を結び、義兵を挙げ忠勤を励んだものである。また足利尊氏の謀叛に際しては、吉野朝に味方し、延元元年(一三三六)後醍醐天皇の皇子征西将軍懐良親王を奉じ、忠節を尽くしたが、応永二年(一三九五)九〇歳でなくなった。
 義弘が死ぬ数年前に風早恵良城主河野通堯を官軍に帰順せしめた。その関係で村上一族の中から強の者村上某が通堯に随従し、越智軍大嶋より地郷に渡り、野間郡山之内村(越智郡小西村大字山之内、旧藩時代石高五七八石三斗一升三合)に居住した。これは正平二〇年ごろ(一三六五)のことである。
 その後、文明年間(一四六九以降)になって、伊予湯月城主河野氏との縁故関係から、久万山西明神「越木ヶ甫気城」の城主となり、山之内丹波守として、東明神横采の地に居住した。このときから村上姓を改め、先住地の村名をとって山之内と名乗ることとした。その後、代が替わって山之内肥後守光宣となり、山之内伊勢守光定となった。光定は、秀吉の四国攻めにより、主家が豊臣に帰順した際、武将をすて「中務光定」と改め、市井の人(市中の俗人)となり、屋号を「山田屋」とした。
 光定の子が庄左衛門光則、光則の子が彦兵衛光治、光治の子が彦右衛門光長である。天和三年(一六八三)久万山入野村の里正となり、代々伝えて明治五年まで続いたという。光定の曽孫、山田屋彦左衛門光実(仰西のこと)は、家業を継いで久万町本町で商売をしていた。
 彦左衛門光実(以下仰西とよぶ)は若いときから仏法に帰依し、大宝寺の山門に出入りし、高僧の法話に接し、自らの信仰を深めていた。信仰が深まると同時に、日々善根布施の念が高まっていった。この思想が、晩年、さらに深くなり、彦左衛門は「仰西」と号し、私財をなげうって法然寺を建立し、仰西渠の開さくを悲願とするもととなったのであろう。
 ○ 仰西渠の開削
 久万町には幾多の美田があり、米穀は豊産であったが、水利の便はきわめて悪かった。そのため、代々の藩主はこの対策に悩んでいた。
 古くより、東明神村船山の南をめぐり、久万町の北側を流れる川を、西明神村の天丸川の上流でせきとめ、かけひや小さなみぞで菅生・入野・久万の村々へ水をひいていた。なかでも入野・久万へは筧でなければ水がひけなかった。というのは、途中の川岸は安山岩の断崖であったため、小さないで一つ作れるものではなかったからである。
 筧を約四五㍍の間つなぎ渡さなければならなかった。あるところは支柱で支え、あるところは岩角によりかかるなど、その苦労はひととおりではなかった。こうした筧も一度暴風雨に会うと、流失四散し、そのたびごとに修築に多くの経費と日数を費やさねばならず、農民の労苦はなみたいていのものではなかった。
 こうした百姓の苦難を見て、仰西はじっとしておれなくなった。まず妻のやすに相談し、一族にも計った。いずれも援助を惜しまぬと相談がまとまり、工事の計画を立てることとなった。
 仰西は、川の流れの状態、周辺の地質・地形等の実地踏査をし、測量にとりかかった。元禄以前のことであり、測量技術も進歩していない時代のことであるから、調査にも相当の日数を費やしたであろうと思われる。いろいろ調査した結果、安山岩の断崖を切り開いて水路を作る以外に方法はないとの結論に達した。
 藩公へは「水懸り自由にしたく、自力をもって岩山の切り割りを申したき旨御願い申し上げ候」と願い出た。ほどなく許可になり、難工事に取りかかった。
 当時、この種の工事の経験者はなく、相談相手はただ地方の石工と、このほかには多少土木工事に心得ある者のほかにはなかった。もちろん爆破するようなダイナマイトがあるわけもない。玄翁と石鑿でこつこつと岩石を欠いて行くほかに方法はなかった。
 仰西がこの事業に着手した年代は明碓にはわからない。明暦、万治、寛文のころとのみ推定するよりほかにない。(明暦は一六五五年からであり、万治は一六五八年からである。寛文は一六六一年からであり、いずれも江戸の初期である。)さきに元禄以前と記したのは、仰西の死が元禄一一年(一六九八)正月二六日、享年八〇歳とあり、生前の事業であるところからそう記したのである。
 当時、日本国内では各地にこの種の土木工事が行われていた。慶長一一年(一六〇六)角倉了以の大堰川の舟便の開削、土佐藩野中兼山の寛文、海中暗礁を削り津呂の港の便をよくした工事、同じ土佐藩の一木権兵衛が七か年を費やして室戸港を掘削し、最後に自分か人柱となった悲壮な工事などがあった。
 山之内仰西が、仰西渠を開削するにあたって、他藩のこれらの工事を研究する余裕はなかったであろう。ただ一つの参考は、慶長年間に足立重信が石手川を改修するため岩堰を開削したことだけであった。一日、松山城下へ行き、詳細に見聞、調査もした。
 工事にとりかかると、仰西自身が毎日工事場に出て玄翁を振ったのはもちろん、多くの石工や人夫を指揮し監督もした。炎天の日も厳寒の日も、雨の朝も風の夕も工事は続けられた。このような一日、半時の怠りもない日が三年も続いたのである。この間、経費の面は、どこからも援助があったわけではなかった。石工や人夫の賃金、その他資材の経費など、ことごとく仰西の私財でまかなわれたのである。石鑿や玄翁を頼りに安山岩の岩はだにいどむのであるから、筆舌に尽くせぬ労苦があった。石工がそのくだいた石粉を一升(一・八㍑)作るのに半日以上もかかったという。また、その賃金には米一升を与えたという。つまり、石粉一升と米一升のはかりがえである。このようだから、さしもの豪商もその私財のことごとくを失うまでにいたった。ちなみに、現今の機械・爆薬を用いて、仰西と同じ工事をすれば四〇〇〇万円以上(昭和四三年現在)かかるということである。その経費を作り出すために、山之内一族までも破産に近い状態になったということである。
 このように物心両面の犠牲が大きかっただけに、その成果もまた大きかった。延々一四八尺(約五六㍍)の明・暗渠を流れる水は、旧入野村分一四町五段三畝二五歩(約一四・五㌶)、旧久万町分一一町二段一畝一七歩(約一一・三㌶)の水田に豊作をもたらした。
 今も入野に残る仰西田(仰西の所有田)四反六畝(四六㌃)は、いかなる旱天にも水が不足することはない。これは仰西の遺徳をしのび、地域の人々が自分の水田がかわいても、仰西田に水を入れるからである。
 ○ 仰西のその他の公益事業
 仰西は天性土木工事を好んだ。自ら土木工事に対する見積り設計等を立て、しかも、それが妙を得ていた。その上仰西はことのほか世のため人のために公益を広めることを好んだから、仰西渠の成功は仰西にとっては満足と愉悦の情烈々たるものがあったにちがいない。久万郷の人々の仰西に対する尊敬の念は一段と深められた。以来、仰西の提唱することに民衆は異口同音に賛意を表した。
  ア 三坂峠鍋割坂の改修
 当時、旅客が松山城下から久万山方面に来るためには、旧浮穴郡坂本村から羊腸の三坂峠(海抜七一九・六五㍍)、険路一里あまりをよじ登らねばならなかった。その中ほどに「鍋割」と称する難所がある。ここは道幅が狭い上に、路面には小石がごろごろしており、もし一歩過てばたちまち顛倒する。それがため松山方面から来る行商人らがここを通る時、躓いて肩にかつぐ商品、籠にある鍋釜を転がして割ることがあり、これが度重なってたれ言うともなく鍋割坂と言いだしたところである。
 元来、久万山地方四四か村住民の必要とする衣類、什器等の日用品を、旧藩時代には行商人たちがみな松山城下の卸商人より仕入れて、これを一荷籠に収め、森松より荏原、坂本の久万街道に進み、三坂峠を越えて売りさばいたのであるから、当時の往来は頻繁であった。また、一般の旅人も、四国遍路衆も通らねばならなかった。
 そこで、仰西は、これら通行人のために難所である鍋割坂の開削を計画したのである。仰西のこの工事に対して久万山全郷の住民たちはもとより、坂本村の人々も皆喜んで彼を助け労力奉仕に参加した。そのため仰西の経費負担は大いに軽減せられ、計画よりも早めに竣工した。鍋割坂の開削は明暦年間のことであった。
  イ 露の峰切石道の開削
 久万町が久万郷の中心地であり、小田町は小田郷の中心地である。この両者の連絡は、昔から羊腸崎嶇の山路を通って、行われていた。そのため自然両者間における人馬の往来ははばまれがちであった。
 このような地理的関係の上に、旧藩時代においては久万郷は松山藩、小田郷は大洲藩の支配下であったから、なおさら両者の往来はとだえがちであった。が、元来、郡内の隣接地であるから、世が開けるにつれて両者の交通は盛んになった。また、古来より遍路道でもあった。
 当時、久万郷より小田郷に通ずる道路は、久万町から久万川づたいに南下し、露の峰村落合に出て曲がり曲がった山路を経て、小田郷の上川、中川、本川に達し、それから小田町に通じていたのである。その露の峰の山道というのは絶壁の急坂であり難所であった。
 仰西はこの難所に思いを馳せ、露峰村隣村の一〇余か村の人々に相談し、その工事に着手したのである。
 まず、落合方面より工事を始め、山道に取りかかって小高い岩角を切りくずし、やがて、平坦なる往還道を作ることに成功した。
 今もこの地を切石と称している。今日その境に臨んで絶壁をみるときいかに難工事であったかが伺われる。仰西渠及び鍋割坂の経験と、その辛苦がこの切石の開削を成就させたのである。
 この切石の工事が竣工したのは寛文年間で、鍋割坂工事の五年後のことである。
 ○ 仰西の功績と松山藩の表彰
 仰西渠が竣工したことによって、久万盆地の稲作に水利の便益を与え、米穀の増産に利することが大きかったので、その功績に対し天丸川沿い右岸の船山一帯の御立山を賞賜するとのさたが仰西にあったが、無欲であった仰西は固辞して受けなかった。
 その後、天明年間に至り、藩公は、仰西のこの事業に関する調査を行い、その溝渠開削に使用した用具一切を集め、藩の倉に収容し、仰西の記念にするため永遠に保存することにした。それのみならず、二回にわたり賞与の沙汰があった。弘化四年(一八四七)九月、漢学者長洲城晋康に、今一つは元治二年(一八六五)三月に国学者、西村清臣に碑文を起草させたか、当時の幕末の庶政変革のためその碑文を銘するには至らなかった。
 そこで明治一〇年、久万山地方の有志で、修史館編集の任に当たっていた藤野啓に依嘱し、新たに碑文の撰を得、仰西渠のそばに建てた。後、明治一七年西明神字のりこえに建て直した。これが今の碑である。
 ○ 碑文の訳
 伊予国浮穴郡、久万町村は久万山中の名邑なり。其の地塁嶺の頂にあり、平行数里にして、而して水に乏し。初め里民泉脈を北に索め、入野村を過ぎ、天丸川を溯り、始めて源を得たり。然れども水勢峻急にして巌を劈いて下り、派を分つに由なし。民乃相謀り堰いて之を瀦へ、筧を以て之を承く。巌に跨り、空に架し、数十相属して入野村に入り、然る後溝を以て之を受け、以て其村に達す。而して大雨至る毎に筧損し。水絶つ、民亦之が為に労す。元禄中邑に仁人あり。里民の為に永世の利を計る。貲を損て、工を鳩め、崖を穿ち渠を開き、本流を分って以て之に灌く。中間峻厳に遇う。乃ち竇を穿つ。竇の長さ凡そ三十九尺、広さ四尺、深さ之に称ふ。渠の長さ凡百四十八尺広さ竇に同じ。三たび歳を閲して而して工を竣る。之より其後源泉混々として含まず、民物繁殖、終に膏艘の地となる。仁人未だ以て足れりとなさず。又貲を出し以て露の峯の険を夷げ、三坂鍋割の隘を甃み、以て運輸に便ず。今に至り百八十年、邑民其沢を被る。称領措かず、里中の老、口碑の時に訛る有るを恐れ相謀りて石に勒す。仁人姓山之内、名彦左衛門、晩く仰西と号す。乃ち敢て以て渠に命じ、其功を表わすなり。銘に曰く
  仁人之沢は 百世悠久なり
  巌渠は作竭きず 翁の名朽つるなし
 ○ 仰西の寺院建立とその臨終
 仰西は、若い時より仏門に帰依していたが、晩年にいたってますますその信仰の一念を堅くし、仏教の弘布によって一切衆生の済度を図るべく公益事業の数々をやったが、更に民衆の思想善導に思いをいたし、その教化道場である寺院の開創と建立を思い立った。
 これは孝心の深い仰西の、山之内家先祖代々菩提のためでもあった。
 このことは、仰西の晩年にふさわしい事業であるが、仰西の負担も容易ではなかった。仰西はこのために浄財のことごとくをささげてしまった。幸いに久万山は良材に富み、篤志家がいて仰西のために普請用の材木を寄進し工事を助けるなどして、法然寺精舎の建立は成功したのである。これによって久万町の幾多の片男善女たちは仰西のこのような菩提心により精神的に救われているのである。
 仰西は、このように郷土久万地方の公益事業のためにその全生涯をささげ、やがて、元禄一一年正月二六日天寿をまっとうして、久万法然寺のそばの寓舎に、安楽往生を遂げた。享年実に八十、戒名「讃誉正道仰西居士」という。
 さて仰西の妻やすは貞淑の聞こえ高く、仰西に嫁してより内助の功大であって、常に仰西を励まし、幾多の事業を完遂させたのである。
 仰西より五年早い元禄六年(一六九三)正月二九日に病没した。戒名を「全誉宜室妙安大姉」という。法然寺の境内に葬られている。
 仰西の死去後、墓標はこけむし、所在さえわかりにくくなりかけていた。明治三二年、地方有志の協議により同寺境内に大きな墓碑を建立して霊を祭り、同時に仰西の二百回忌の法要を営んだ。
 墓碑には、「翁の実蹟は天丸川渠畔の碑に詳かなれども、墓地の碑石は形小にして、既に所在を失わんとし、将来知るものなきに至らんことを憂い、茲年二百回忌に相当し地方人一同の賛助を得てさらに再建す」と刻まれている。