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久万町誌

四 高野 幸治

 野尻市が幸治市とも言われた時代がある。それは、野尻の高野幸治という人がこの市場の開祖だからである。
 祖先は旧松山藩士の安部豊後守、国分太郎左衛門という人である。その子は国分団次といい、その長男に生まれたのが幸治である。幸治の長男幸助は高野家の養子になった。この幸助は、現在野尻在住の初代久万保健所長医学博士高野伊三雄の曽祖父にあたる。
 その他治の父団次はゆえあって剃髪し出家して、菅生山大宝寺にはいった。ところが、この団次は生来英気豪邁の人であって、安座閑居をきらい、常に外出を喜び、野に山に遊び鳥獣を捕え、猟を好み、川に出て漁するを常としていた。殺生禁断の仏界から離れて遠く外道に遊ぶことを得意としていたので、幾度か師をしてひんしゅくせしめたことである。たまたまこの小僧の話が町に広がった。
 そのころ、上野尻に高野左五衛という人がいた。彼には嗣子がなく、あとつぎが欲しいと思っていた欠先に団次のことを耳にした。そこで、彼は早速大宝寺を訪れ、老師に嘆願し、団次を養子としてもらい受けた。その団次の子が幸治である。
 幸治は、性質が父団次に似て英気豪邁の上に快活で明敏であった。公共心に富み、幼少の時から商売に興味をもっていた。一二歳のころ近隣に家畜商白石新七がいた。その新七が日夜営々として馬を売買しているのをみて、幸治は大馬喰になりたいと思い、新七に頼んで馬を世話することを始めた。以後、新七の商売にはいつも幸治がついていった。したがって、その馬をみる力も人よりすぐれ、売買の仕方、要領もよかった。そして、あくる年一三歳で主人の新七に見込まれて独立し、一人前の馬喰となった。経験もつみ、研究もでき、次第に手を広げていって取り扱う馬の数も多くなった。そこで、彼は世話のかからない売買方法はないかと考えるようになった。初めは自分の世話した馬を一か所に集めて交換や売り買いをしていた。この方法を地力の秋祭り(三島神社)である九月一八、九日に定期的に用いた。これがそもそも野尻市の始まりである。存外人気のよかったのに気をよくして、毎年この日を市の日としたのである。そのうち幸治に関係のない馬喰や、新たに馬の入用になった者、売りたい者等が集まりはじ、その範囲も近郷に広がっていった。このころこの市を幸治市とよんでいた。
 ことに、この市が発展したのは幸治自身が自己の利益のみをあさるのではなく、世話が好きで皆の喜びをもって自分の喜びとし、売買の利便をはかったためである。利用者は久万郷全域にわたり小田郷にものびた。幸治は利用者が多くなるほど喜んで、入場者の世話を丁寧にした。そしてその人たちを酒肴でまかなった。市場には活気がみなぎり、次々と盛んになっていき、近郷のみならず他県にもおよんだ。
 幸治市とともにいつの間にか野尻の地が有名になって野尻市となり、今も周辺の集落はその恩恵を少なからず受けている。
 彼は、明治六年五月一三日、八八歳でこの世を去った。
 その後、野尻に高泉勝三郎という人がいて、幸治に劣らぬ献身的努力をし、野尻市をますます発展させた。高泉はこの地方の馬匹の改良を思いたち、越智郡野同郷や九州の日向から優良種を多く買い入れてきて市に出した。このような努力により県内外に野尻市の名がさらに高まっていった。
 久万山は、畜産の適地であり、その上に高野幸治、高泉勝三郎のような先覚者の幾十年の労苦が加わって市場の形成、ひいては上浮穴郡の畜産を盛んにし、大正二年には上浮穴郡畜産組合が設立されたのである。