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久万町誌

五 梅木 源平

 梅木源平忠員は、天保六年(一八三五)二月二二日、久万山直瀬村庄屋小倉藤太の四男として生まれ、弘化三年(一八四六)六月、梅木家を継ぎ、同四年九月、西明神村庄屋となってから明治維新まで四〇年間連続して上浮穴郡政に参与した。彼は産業の振興、交通の発達など本郡開発にその短い生涯を捧げた。当時の郡民は、彼を久万山の小天狗と呼び尊敬していた。
 源平が会所(久万山代官所に属し、代官・手代・元締等の役職員が随時藩から出張して会所詰庄屋を指揮監督し郡事務を行う所である)詰めになったころは、嘉永六年(一八五三)黒船の来航により国内が騒然としていた最中であり、武芸・砲術・乗馬の熟練が要求されていたのである。
 安政六年(一八五九)七月、人造硝石用掛を命ぜられ、人造硝石及び床下焔土の煎練をあわせて行い、松山藩兵備の急を補っていた。この任務は、明治初年のころまで続いた。科学の進歩していない時代なので、実験に実験を重ねたわけであるが、その苦労は想像以上のものがあった。
 文久二年(一八六二)、大味川村若山銅山試掘に際してその御用掛を命ぜられ、小屋掛けして住み込み、見込みが薄いといわれた鍋山の鉱床をみごとに掘り当てた。彼が松山藩戦備に役立った功績は大きく、苗字帯刀を許され、たびたび褒章を受けた。慶応二年(一八六六)銅鉱運送のため井手口から松山間の道路を改修し、牛車を使うことができるようにした。このように、少しの休みもなくあらゆる方面に活躍したのである。
 元治元年(一八六四)攘夷討幕の論が山村にも伝わってくると、住民の動揺は次第にはげしくなっていった。それをおさえるためには村をまわり指導教育することが必要であると考え、御目付岡宮小左衛門に依頼して、慶応四年(一八六八)に斉院敬和を迎えた。これが久万山寺小屋教育の一大進展をとげるもととなり、住民に多大の影響を与えた。
 慶応四年(一八六八)正月、鳥羽伏見の戦いがあって親藩松山は朝敵となり、土州勢が池川から国境にある東川村へ侵入して来た。当時の交渉は東川村の大庄屋梅木伝内が当たったか、討ち入りから引き揚げの通路の計画、大切な場所での宿泊焚出等の応接・接待の指揮はほとんど梅木源平であった。
 明治四年、藩主はその職を免ぜられ、一家が東京に移ることとなった。そのことを知った郡民は、二〇〇年余り恩顧を受けた藩主を引きとめ、松山に永住させようと願い出た。領民が純情であったことは、久万山の人々が暴動に一人も加わらなかったことでもよく示されている。久万山は昔から貧しい郡であったため、たびたび救護や温情がかけられた。今日残っている久万山凶荒予備組合は、救護、温情がかけられた時の米や銭が基礎となってできたものである。同様のことは他郡にもあったはずであるが、ただ久万山だけが米・銭を分散しないで計画的に蓄積し、非常の時に使えるよう備えたのである。このため郡民は心から藩主に感謝したのである。この陰に、会所詰めであった梅木源平の功績があることを忘れてはならない。
 明治四年、久万山一揆の際、源平は会所詰めでの職務に尽力し、慰労金千疋を賜っている。(久万一揆別記参照)
 源平、四○年の公生活のうち、最も大きな仕事として取り組んだのが教育の面である。幕末から明治維新にかけて人心が混乱動揺している時、人格・識見にすぐれた師を迎え、まず地方の指導者を育成することが急務であると思い、寺子屋から学制実施までの本郡教育の基礎を培った。(源平の「観学記」資料集参照)
 斉院敬和を迎えた翌明治二年六月には、学校入用費として藩庁に米一○○○俵を五年間借り受け、五〇〇俵の利米を蓄積して今後の学費の準備とすることを願い出たが入れられず、明治六年三月には、自費を投じて孝経(孔子が曽子のために孝道をのべたものを筆記したもの)を出版し、献本して学校用とするよう願い出ており、いかに教育に熱心であったかを知ることができる。
 明治五年、廃藩置県とともに郡は区となった。その際副区長となり、明治七年、区制の変革があったが引き続き副区長、明治一〇年、第十四大区々長兼学区取締となった。眼病のため辞任を申し出たが許可されなかった。このことによっても源平がいかに衆望を負っていたかが伺われるのである。
 明治一一年、各地租改正の大事業を完成し、辞表を提出したが、「郡区改正まさに近きにあらんとす。依って暫く奉職すべし。」という官令が出て、受けいれられなかった。
 同年一二月一六日、郡区改正の発令により、久万郷及び小田郷を合併して上浮穴郡と改称するようになり、秋山静が郡長となった。源平は秋山と旧交があり、源平に「今や郡区改正の際事務繁多、兄は前日此の郡に職を奉じ又土着の人にして能く下情(ありさま・民の心)に通ず。加え去る一〇年九月区会議員により県令に上申の儀もあり、願わくは暫く奉職し以て人民のために所するあれよ」と、説いた。源平がこれを承諾したので左のような辞令があった。
 任 愛媛県上浮穴郡書記 但一三等相当
   履   農
 明治一三年七月、上浮穴郡書記をやめ、西明神村の学務委員、地租改正顧問となる。
 明治一五年七月、愛媛県県会議員に当選。
 明治一八年一一月、久万山凶荒予備組合設立の世話をする。さらに新道開さくのため相談役を委嘱される。
 明治一九年、予土横断新道開さくがはじまり桧垣のよい相談相手となる。
 明治二〇年九月より井部・山内・佐伯とともに請負人の内に加わり、
新道立花ー麻生・三坂ー県境間の難工事を完成するため献身的な努力を重ねる。
 明治二一年、上浮穴郡小学校教科用図書選定委員を勤め、愛媛県伊予尋常中学校設立に尽力し賞を受ける。
 同年一二月一〇日、新道完成を目前にして死去。享年五四歳であった。