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久万町誌

七 桧垣 伸

 幼名を友諒といい、後に淑人と改め、通称斧右衛門、後に伸と改めた。松山藩士野田吉右衛門惟徳の二男として、嘉永三年(一八五〇)九月一八日に誕生した。
 安政六年(一八五九)一二月一五日、桧垣家の養子となった。
 養父を浅之助実弘、養母をトラといった。慶応二年(一八六六)、一七歳の時、藩学明教館に入学した。漢学の素養は、このころに大いに進歩したものであるが、家で学んだことが非常に役立っているように思われる。また、幼少の時から武芸に励み、特に槍術にすぐれ、一七歳の一二月中段の免許を得、更に槍術修業世話役すなわち代稽古にまで進み、ついに槍の小天狗と称せられるまでになったといわれている。
 明教館の方でも明治二年、二〇歳で助教を命ぜられ、教授の列に加わり、洋学の講座を受け持ったと言われている。洋学といっても外国語を教えるのではなく、西洋の思想を伝達することであった。すなわち、新島襄・福沢諭吉の新思想を、儒教的思想によって批判する講座であった。
 明治二年一〇月、養父は隠居し、家督を相続して一家を支えていかねばならなくなった。
 明治四年正月には高知県へ留学を命ぜられたが、同年八月、病気になり帰郷した。明治五年一○月、明教館助教から新設の啓蒙小学校の校長に任命せられた。
 なにぶん寺子屋から急激な変革の新制度のためずいぶん苦労をしているところへ、明治七年、広島に初めて師範学校が開設されたので、当年二五歳の青年校長は同校へ入学することに意を決した。二年間の留守の生活のことなど考えつつも、新教育への熱意と、地方文化の増進を胸に描きつつ広島へ渡り、無事入学試験を通過したのであった。なにぶん郷土の文化を進めたいという重大な念願を持っているのに、卒業後、郷土に帰れず、山口や広島にやられたのでは困ると思い、後に文部大臣になった当時の広島師範学校長久保田譲にあって嘆願した。が、新教育発足早々で人材乏しい時であり、郷土に帰すという約束はできないとの返事に失望し、ついに涙をのんで帰郷し、元の啓蒙学校の経営に当たった。初志忘れがたく、せめて、上京してもっとも進歩した東京の新教育の様子を見学したいという気になり、老父母の許しをえ、大枚二〇余円を持って上京した。まず、東京師範学校付属小学校を見学した。田舎の教師が一段高い畳に正座し、前に机を置いてひとりひとりを教える寺子屋式の教育とは全然異なり、一斉教授の方法で、一人の教師が何十人も教えていたこと、更に建築もそれに応じて三間と四間の洋風建築であったことに深く心を動かした。
 帰郷後は、直ちに一斉教授を採用し、また、一方、それにふさわしい教室や校舎の建築を考え、寄付金二〇〇〇円余りを集め新校舎を建てた。
 明治八年一二月、学区取締を命ぜられた。学区取締は、学区の教育の世話役で、同時にその区の学校を監督する役であり、後の視学のようなものである。
 翌九年、松山に師範学校ができることになり、創立事務長になった。更に師範学校監事に任命せられた。監事というのは、教務と事務との双方を監督する役である。明治一一年、二九歳の春、師範学校を辞したのである。その年の一二月、郡区町村編成法が発布せられて、伊予を一八郡とし、その長を部長、町村には戸長を置いた。
 初代の郡長には相当の人物が選ばれたのであったが桧垣伸は、下浮穴郡郡長に任命された。(下浮穴郡というのは現在はないが、浮穴郡を上、下の二郡に分けたもので、今の温泉郡、伊予郡の一部がこれに属しており、下浮穴郡の郡役所は森松に置かれていた)
 明治一二年五月には伊予郡長を簾務することとなった。明治一四年に上浮穴郡郡長に転任した。その後一九年に地方官官制改正があったが、つづいて上浮穴郡長に任ぜられ、明治二七年七月に休職を命ぜられるまで、一四年間在職したのである。
 明治一七年、四国新道開通にあたっては、松山ー久万間を自から進んで峰をよじ登って実測した。そのころはじめてできたダイナマイトの効力をためしたりしながら、費用まで算定し、知事を納得させた。さらに高知県知事をも説き伏せた。
 明治一八年、四国新道開通の件が県会を通過して実行に移されたのである。多くの人々の協力により、明治二五年八月、四国新道(松山ー高知間)が竣工し、三坂峠で竣工式を挙行した。
 明治一八年、桧垣郡長の斡旋で久万山二四か村連合会を開催し、久万山民積米金維持規則を作って、二四か村に本籍を有する者の共有であることを確認した。この規則には、協同一致して維持し、分配、配布しないことを規定している。この時の全積立財産は、次のとおりである。
 金 三〇、八〇四円九九銭一厘
 米 一、二七二石九斗三升
 これまでに推進した苦労は、なみたいていのことでなく、貸付の整理、民積分割争議などがあり、容易なことではなかった。当時、自由党の壮士であった白石格等が筵旗を押し立てて郡役所に乗り込み、脅迫的に分割を訴えるなどの事件があったが、桧垣郡長がうまく説得したのである。代官時代までは領内各郡とも備荒貯蓄はあったが、本郡にのみ今なお残されているということは、桧垣郡長の遠大な計画によったものといっても過言ではない。
 町村制実施後、明治二三年一〇月二二日、「明神村ほか八か村久万山凶荒予備組合」と称し、町村組合となって歴代郡長が管理するようになった。桧垣郡長が初代管理者となって(二七年六月まで)はじめて統制のある運営ができることになったのである。
 明治二六年、四国横断鉄道が国家の軍事上、経済上、また、地方繁栄上必要であることを各方面に説き、一二月松山市において大会を開き、本線の期成を決議し、郡長退職後も幾度か上京して国会に働きかけた。明治二八年、全国鉄道同志会に入会し評議員となったのである。
 その他、植林についてもずいぶん熱心であった。また、三椏が山地に適していることに注目し、それを奨励した。幸いにして各地で栽培し成果があがった。さらに馬鈴薯の種を取り寄せて自分で試作し、「これは代用食にもなるから、万一の時にも役に立つし、寒地に適したものだから将来必ず上浮穴郡の特産の一つになるだろう」と奨励した。そのおかげで今日では北海道産に匹敵するような立派なものができるようになったのである。
 大正一三年七月、食道癌および動脈癌と診断されたが、少しも平素と変わったところもなく、重態となってからも病床に臥すことなく客と応対したということである。
 一〇月のある日、「自分は上浮穴郡郡長として赴任して以来、上浮穴郡に対する愛着は日々に増し、力の限りをつくしたが、ついに鉄道の開通を見ることができなかった。のみならず、まだこうもしたいということがたくさんある。魂が滅ずるものでないとすれば、私事には少しも心がかりはないが、死んでからも骨を久万の土地にとどめて、生ある間に成し遂げなかったことが成し遂げられる日を見たい。わしが死んだら、遺骸を久万に埋めてくれ。葬式のごときは仏教に信仰のある人には貴いことであろうが、自分は仏教的信仰は不幸にして持っていないのだから一切廃して玄関に遺骸をすえ、生前の知人に告別してもらって、直ちに火葬にし、久万の真光寺の大木の桜の下に葬ってくれ。したがって墓標に戒名は不必要で、桧垣伸墓とすればよい。自分の志をあらわす文句を何か考えてくれ。」と遺言したといわれている。
 時に、大正一三年一一月一五日、七五歳であった。
 遺言かあまり意外なもので反対もあり、松山にも墓をつくって分骨したが、その他は遺言通りであった。
 墓表には桧垣伸の志をあらわす「埋骨注心血地」の文字が書かれている。桧垣伸は愛着のあった久万山の土地真光寺に埋められた。上浮穴郡の文化が日々進んで行くのをよろこんで見ていることであろう。