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久万町誌

一〇 石田 佐々雄

 ○ 略 歴
 明治二八年上浮穴郡明神村(現久万町)東明神に父精三郎、母ハナの一人息子として生まれる。大正五年三月優等第二席で愛媛師範学校卒業。久万尋常高等小学校訓導となる。その後、愛媛男子師範、女子師範学校の訓導を経て三〇歳の若さで久万尋常高等小学校の専任校長となる。
 郡内一の若い校長が郡内一の大規模校に招かれるという異例の抜擢人事であった。当時名町長といわれていた高橋精一郎氏は、英断を以って彼に白羽の矢を立てたのであった。(当時教員給は全て町村負担であった。)
 彼は、町長の期待どおり若い者と共に求め、学び、議論し、相たずさえて郡教育界に新生面を開くべく努力した。久万小在任六ヵ年間に築いた研究熱はその後もずっと上浮穴の教育を支えているのである。
 その後、県視学となり続いて松山市の教育課長に就任。「切れ手」と称されその手腕を存分に発揮した。
 二・一スト問題に悩み心身共に疲労の極に至る。妻の勧めにより黒住教入信を決意する。
 五三歳二月、黒住教訓導に補せられ、三月、明神教会所長を命ぜられる。以後七一歳でその死に至るまで宣布に献身的熱情を傾ける。
 彼はその生涯において二つの人生を送ってきたといえる。前半の三〇年は研究と実践の先駆的教育者としての活動であり、後の二〇年は、熱烈な宗教家としての活動である。そのいずれにおいても卓越した業績を残した。また、両生涯を通して書き残した短歌・俳句は彼の心の記録である。
 ○ 教育論とその実践
 大正一一年一〇月、「愛媛の教育」に彼の教育論なるものを発表した。彼はよく新刊書を購入。特に哲学・教育学・美学・文学等を愛読していた。この読書によって教育の原理を究め教師たるの基礎を強固なものにしていったのである。彼は「体験教育と個性の伸長」について次のような結論を得ている。『柳の枝に桜を咲かせ梅の香をもたせたい。とは迷語に過ぎない。普遍即特殊・個性の中に安全境を見出し、調和の中に個性をみる、これが実在の真相である。是に於て教育者としての吾々の立場は、内面真純な要求が普遍的価値を有するように漸次に指導すべきものであって初めから規定の理想や社会的能率を直接正面の目標としてはならない。それは、余り強くこれに執着すれば個性は圧迫せられ体験の境地に入ることが出来ないからだ。超越感より内在観へ・外からの教育より内からの教育へ・上からの教育より下からの教育へ・更に統一一元の体験教育へ!吾々自ら子供となって精神努力する事によって、子供を生かして生活せしめ、幼き日の記念の作と思い出を残させつつ漸次に伸ばしめる、これが吾々のとるべき教育なのである。』
 男女両師範附属訓導としての七年間で青年教師としての彼はすぐれた師友と共に教育研究に専念し、その実力は高く評価され、将来県教育界をになうべき人として嘱目されていたのである。彼がここまでになり得たのは彼自身の努力もさることながら彼の上司である山路一遊・武田米蔵各先生の指導があってのことである。彼が山路先生を特に人生の師としたことは「師道鑚仰之碑」建立に奔走したことでもうなずける。
  ○なにもなにも焼け失せにける校庭に君讃ふ石ぶみ一つ
 研究肌であり実践家であった彼が三〇歳の若さで久万尋常高等小学校長として赴任すると決まったとき、先輩校長達のショックは大きかった。当時、久万校以外の校長は学級担任を兼ねていた。久万校は職員数においても校舎や設備においても郡内一であった。町民の驚きも大きかった。これまで赴任してきた校長といえば相当な年配の人であったからである。
 しかし、彼はおごることなく地道に実績をあげるべく覚悟をもって赴任してきたのである。それは丸刈頭に白い詰襟服での赴任姿に秘められていたようである。若い職員たちは心から新校長を歓迎した。当時の教育の難しさにまいっており教材研究の方法もよく分からずどんな本を読めばよいかも分からないところへの彼の赴任。校内の研究体制はがっちりと組まれた。もちろん若い職員の期待に応えてである。毎週月曜日は職員会と研究授業。批評会が夜に入ることも珍しくなかった。研究発表は、まず校長自身から。「芸術とは何ぞや」という題で厚いプリントを配布、三日間連続で放課後に発表するという熱の入れようであった。広大教授・福島政雄氏の「ペスタロッチをめぐりて」という本の共同研究を手始めとして数々の共同研究に取り組んだ。
 彼が校長になってから、松山の書店での買い上げのトップをいくのは、中予地区では上浮穴郡であったという話は有名である。毎年、郡教職員夏季大学の開講を企画実践したのも彼である。当時、県内外の高名な大学教授を招き郡教育界に大きな刺激を与えたものである。今もなお残る教育界の研究の気風は彼の影響力によるものである。
 剃刀視学としての名を高くしただけあって視察時の指導ぶりは冗漫を極力避けて寸鉄人を刺すという風で歯ぎれのよいものであった。しかし、その反面、細心の気くばりのできる温かい心の持ち主でもあった。
 「だれそれは、これこれの実力をもっている。あれを埋めておいては勿体ない。引き出して何かやらさなけりゃ」と敏感に察知して人情味豊かに対処してその手腕を示した。視学として指導すべきことはピシッと指導するが、対人間として温かく接することをことのほか大切にした。酒修行の中で心を通わせあった人物も多いという。
 昭和二〇年、米軍によって市街のほとんどと共に一二の小学校が焼失。その年、松山市の教育課長に就任。諸物資欠乏の中にも焦土松山の復興に併せて戦災一二の小学校のバラック建築に着工。もちろん彼の東奔西走の熱意の賜である。
  ○山はさけ野は荒れ果てし皇国土には花を咲かすなるらむ
 しかし、安堵したのもつかの間、激烈な教員組合の活動に悩まされるのである。一三ヵ条の要求貫徹を謳歌して教育を放棄し、諸労働組合と連合してトラックを先頭にプラカードや赤旗を掲揚し、ジグザグ行進長蛇の列、戦災復興に専念する市民も唖然とすると共に学校建築への市当局及び父兄の協力は次第に憤激と変わっていった。彼の失望と激怒は天を衝くの感であった。二・一ゼネスト、彼は渾身の力を奮って生石小、雄郡小へと鎮圧に行ったが如何ともしがたく愛弟子の校長や教頭に鉄拳を振い「馬鹿野郎、市民を怒らし父兄を怒らして学校復興ができるか、ストをやって教育の正常化ができるか、天皇陛下に申しわけない、上司や父兄にすまない、佐々雄の微力が不甲斐ない」と叫び慟哭して足止教員の面前で倒れた。心身共に疲労の極に至り自己意識喪失。四〇日間の入院生活を余儀無くされ、課長依願退任することとなった。
  〇渾濁の流れのままに活くる身もひとり微笑むことのありける
  ○かたくなにまもりきにける信実をかきみだされて血潮たぎりぬ
  〇よき子らが時の流れのいたつきにしみゆくみれば身の疼く覚ゆ
 ○ 入信・布教への道
 退院するや「もう役所勤めはよして下さい。そうしてお道(黒住教)に入って下さい。」との夫人の歎願と宣言。彼の祖父・父共に熱心な黒住教信者で明神教会所長であったが、彼は無信心にてひたすら教育界一本ですごしてきた。
 それ故、空襲警報の度ごと夫人が祖霊を背負って待避するという状態であった。夫人のすすめで大元へ行き教師志願者講習を受けたのは彼が五二歳のときである。彼の受講のことを伝え聞いた明神教会所の教師たちは吾がことのように喜んだ。そして、五三歳で黒住教訓導職に補せられその直後明神教会所長を命ぜられたのである。
 責任感の強い彼のこと、その任を与えられるや即宣布に献身的な熱情ぶりをみせた。足の及ぶところ、上浮穴郡内はもちろん、温泉郡、松山市、伊予市、高知県池川町等にまで至った。祖父、佐吉翁の「一吹き」(天日の陽気を腹いっぱいに吸いこみ一息病人の病所にかけること)で病がからりと治ったといわれるその血を受けてか彼も医者に見離された病人をすくった例も数多い。献身的な彼の宣布が認められ五七歳のとき、黒住教教議会議員に選出され以後死に至るまでその職にあった。
 「信の落穂集」の自費出版をして親友に頒布、また、部落一の資産家であったため山林に植樹して黒住教御宗家へ贈るなどの業績がある。
 地域にあっては、明神公民館落成、皿木橋復旧の際、それぞれに明神地区福祉施設同盟会長・建設委員長を務めその発展に力を尽くした。
 彼の最後は、中山町の黒住教教会での演説中であった。「生きるのも神のみ心、死ぬるのも神のみ心」と言って、「うーん」と一声、壇上で倒れそのままであった。昭和四一年二月五日、七一歳であった。
  ○神々のつくりかためし国に来て生を托すといま誓ふなり
  〇日かげさす明るき書の山頂に神業語り心うららか
  ○御絵像に居ずまひ似せむ夜長かな