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久万町誌

一一 高橋 精一郎

 高橋精一郎は、明治四年(一八七一)に福井町の酒造業高橋屋の岩吉、ダイの長男として生まれた。幼い頃から聡明であった精一郎は松山尋常中学校(現東高)に学び、更に進学を志していたが、一六歳で父岩吉を亡し、四代目として高橋屋の家業を継ぐことになった。
 家督を継いだ精一郎は、母ダイを助けて家業に勤め六人の妹を松山女学校(現東雲学園)などに進出させた。また、久万実業懇談会(現商工会)で中心的な活動をしただけでなく、松山の用達組(現商工会議所)にも入り、商業の振興に努めた。
 このように活動範囲が広がるにしたがい、枡酒を飲むほどの酒豪になったが、ある日母ダイから「人間としての生き方」について強く諌められ、またキリスト教に目覚め、ぷっつりと酒を断ってしまった。そればかりでなく「自分が飲まない酒を人に売ることはできない」といって酒造業までやめてしまった。
 収入の道がなくなった高橋屋を支えたのは妻フミである。フミは松山女学校の第一期生として卒業し、向学心にもえ京都高等蚕糸専門学校(現大学)で養蚕技師の資格を得て内子町(酒造業菊地)にかえったのち、精一郎に嫁ぎ家業を助けていた。 
 精一郎が酒造業をやめると、明治三八年(一九〇五)久万山蚕種製造会社「愛国館」を興し、手広く養蚕を営み郡内の養蚕業の近代化にも貢献した。愛国館の絹糸は最高級品として評価され、皇室用としても採用されるようになった。最盛期には七〇人あまりの従業員をやとって愛国館を経営しながら、精一郎の妹達を結婚させ、七人の子供を教育し、夫精一郎の幅広い政治活動や文化人との活動を支えた。その多忙のなかで長年婦人会長として婦人教育などの社会教育にも力をつくしている。
 また、精一郎とフミは、宇都宮音吉(医師)佐伯祐三郎(二代目久万郵便局長)らと協力して、久万キリスト教会を創立し、キリスト教の伝道にも努めた。フミは、明治・大正・昭和初期の県下では数少ない女性実業家として活動したばかりでなく、社会教育・宗教活動もすると同時によき家庭人でもあって久万山一の女傑といわれた。
 このようなフミを得た精一郎は、明治三五年(一九〇二)第一回久万町会議員を手始めに、やがて県議会にもでて、見識を高め視野と交友関係を広めていった。その範囲は驚く程広く、中央の政財界人にもおよんでいる。政党人としての地位を得た精一郎は、民政党党首尾崎行雄らを久万に招き政治講演会を催すなどして町民の政治啓発も行った。
 県議会議員を辞して再び久万町議、助役などを勤め、大正二年(一九一三)、第三代久万町長となった。昭和一一年(一九三六)、病のため引退するまでの二三年間、久万町と上浮穴の発展のため心血を注いだのである。
 昭和一五年、その功績をたたえ、笛ヶ滝公園に頌徳碑が建てられたが、その碑文には「氏は衆望を荷い、県政・町政に参与し、県内外の自治界に東奔西走し、我町百年の計を建立」(一部抜粋・要約)と記されている。
 精一郎が町政を継いだ第一次世界大戦(一九一四~一八)前後は、世界恐慌など経済の激動期にあり、久万町の財政も不安定な時代であった。精一郎は財政安定の第一策として、伊予鉄道株式会社より電気の権利を譲り受け、大正八年(一九一九)町営の電気事業を興し財政基盤を固めたが、この事業によって町民に安い料金で電気を供給し、生活の向上をはかることにも意を注いだ。
 この財源を得て一三○○㌶の町有林(凶荒予備林)をつくり後世の事業に備えた。今日でも学校建築などたくさんのおかげを受けている。更に大正一三年(一九二四)に菅生村を合併し、役場庁舎、学校、青年会館などを次々と建て上浮穴の中心としての町づくりをしていった。
 中央政財界、地方政財界に多くの知己を得ていた精一郎は、地元有志の応援をうけて、産業経済の面でも、桑園の改良奨励、製茶組合の結成、実業女学校、青年訓練所の設立、国道の改修(大正一一年、松山、久万間に定期自動車便開通)久万銀行の経営安定化、雑穀採種園(高冷地試験場)の開設、消防組の近代化、商工会の設立など、産業経済面でも多くの事業を進めていった。
 なかでも、久万信用組合(現農協)を昭和四年(一九二九)に創立し、自ら初代組合長を兼ね、昭和一八年(一九四三)までの一四年間、農業の振興と農家経済の安定に力を尽くしている。そのほか、笛ヶ滝公園に招魂堂や池の中にあずま屋を建て憩の場として整備したり、県知事や和田英作(東京芸大学長)牧田嘉一郎(県文化功労者)を久万に招き、古岩屋や面河渓を天下に紹介、宣伝するなど観光開発先駆者の一人でもあった。また。精一郎の文化人としての面も見逃してはならない。久万郷は江戸時代から俳諧の盛んな地方であったが、精一郎は松山中学の二年先輩であった村上霽月に俳句の手ほどきを受け、現在の旭ヶ丘に自適庵を建て、町内の佐伯如月(祐三郎・耕風会)や鉄嶺吟会の俳友らとともに、霽月、河東碧梧桐、柳原極堂、内藤鳴雪、酒井黙弾らを迎え度々句会を催し風流を楽しんだ。この自適庵には多数の文人墨客がおとずれ文化サロンの役割を果たしている。
 精一郎がこのように多くの業績を残すことかできたのは、彼自身の努力によるものであるが、それに加えて数多くのよき先輩、友人の協力が得られたこと、母ダイ、妻フミら家人の支えがあってのことであった。
 久万山を愛し続け、雪の白さに自分の生き方を見出して六華とも号していた精一郎は、昭和二〇年(一九四五)二月二二日、雪の降り積るなか神に召されていった。
 多くの人々と親しんだ自適庵跡(現旭ヶ丘)に眠っている。