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面河村誌

編集顧問として

 面河の地は石鎚山系の南斜面に位置し原生林に覆われて長年月を経たらしく、いつのころか若宮某と呼ぶ杣人が開拓の斧を入れたという口碑がある。
 土佐勢の侵入に備えた東明神の大除城が天正十三年に落城して大野家将士が村内の草原・若山・大成・昼野・渋草・土泥・笠方等に住みついていて開発の指導者となったとか、あるいは木地師が入山して椀・盆の類を製作したという記録もある。
 江戸時代に表向きは北番村という村高九百八石の大村であったが、実は三百七十余年昔の慶長十二年に杣野村・大味川村が成立し、それが明治二十二年の町村制で杣野村をつくり、昭和九年に面河村となった。村名は名勝面河渓から得たが、おもごの名は天明年間に松山藩士加藤勘介が面子山御用で登山したと円光寺の明月が記録に留めている。
 面河村は久しく文化から隔絶されて心温まる民話を育てた山里であるが、近年は石鎚・面河渓・ダムと登山に観光に都会人士を集める新旧共存の村であり人口流出の悩みを抱えた過疎の村でもある。いま村の現実を正確に記録に留めることは今後の発展に資するのみでなく、今日の典型的な一山村の姿を見るものとして日本的な意義がある。
 私が中川村長から編集顧問を委嘱されて村を訪ねたのは昭和五十年三月であったが、その後役場の機構も変わり、執筆の先生がたの転任があって計画が頓座し、文筆に優れた中川武久氏が単独でつづられた数年間もあった。こうしたピンチを切り抜けて、教育長高岡幸盛氏が初志貫徹を期し、現任諸先生の全面的な御協力を得て最終的にまとめられた。顧問とは申し条、私は公私多忙にかまけて十分な責務が果たせなかったが、所期のとおり本誌がりっぱに完成したことに喜びに堪えないところで、ここに、関係各位の御努力に対して深甚の謝意を表するものである。
昭和五十五年二月
愛媛県史編纂委員 伊 藤 義 一