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面河村誌

六 大味川六人衆

 大除城落城後、幕下の希城の城主・将卒の多くは牢人として知己をたより、あるいは逃れて郡内の村々に移り、百姓の生活に入った。
 後年、大味川村の開祖と称せられた六人衆も、大除城大野一家とかかわりのある者である。六人衆の記録で最も古いものと考えられるものは次のものである。
 ……前略……中川善之助殿ノ申ケルハ、斯落人ト成ル上者、共許モ百姓相営可申様噂有之、弥五右衛門被申出候ハ、田畑給リ候得者百姓仕度与申ケタニ付、我隠居地半分遣ジテ生ケ渓与申所工住居仕ケル、此時之百姓分、中川善之助、菅内蔵之丞、中川新左右衛門、高岡市右衛門、同弟八左衛門杯、是ハ大味川邑二住居二而、役儀相勤ル也、若山二菅内蔵之丞、同苗(加藤)長助、此時之六人衆ト申也……中略……
   右之通、無相違故、子孫為心得、記置者也
     元和二丙辰歳
       正月穀旦
              中川新左衛門
              清房
             (本組中川清愛所蔵・元和二年=一六一六)
中川善之助ー中川清政、豊後国竹田より伊予国に来り、大除城主大野直昌の家臣となるという 。大除城落城後、嫡子中川善之助、昼野へ来り東屋敷に居を構える。
菅内蔵之丞直俊ー笹ヶ峠の合戦で討死した菅内蔵之丞道氏の縁者。直俊の祖父菅式部介高善は 初め浮穴郡拝志郷花山城によったと伝えるが、文中三年小笠原兵庫頭政長ら七千余騎攻め来り、花山城を退き昼野に逃れ若山城を築いたという。
高岡市右衛門ー豊後大友氏に仕えた高岡図書の子市右衛門は、諸所を流転して伊予に来り、久万山に入り大野家の家老(勘定奉行)となったと伝える。
別に大味川六人衆由来記(中村小野義直所蔵・高岡家系図)には次のように記載してある。
  先ず第一に、中川善之助昼野に来りて、東屋に小屋を建て、百姓を営みしが、親友の間柄である高岡市右衛門を説き、菅弥五衛門を伴い帰り浪人となる上は、百姓にならん事を懇請す。ここで、三氏一致協力して、開拓を進む。やがて市右衛門の弟、高岡八左衛門、菅内蔵之丞の義弟菅(加藤)長助の三氏来り、一同相談して、大味川開発の先駆者として、それぞれの土地を与えられ次の如く配置した。
   中川善之助    一八三番地第一東屋(高岡寿典住)
   高岡市右衛門   一八一番地 中屋(高岡輝若住)
   菅弥五衛門    一九〇番地 伊加谷(菅清三郎住)
   高岡八左衛門    九八番地(中川宗義住)
   菅内蔵之丞    一二一番地中吉(菅福定住)
   中川新左衛門   一三六番地(中川清愛畑)
   菅(加藤)長助  一四八番地 土居(加藤孝昭住)
なお六人衆の墓地は次のとおりである。
   中川善之助   昼野   高岡市右衛門   昼野
   高岡八左衛門  本組   菅(加藤)長助  若山
   中川新左衛門       菅 弥五衛門   不明
   菅内蔵之丞   不明
  六人衆余聞
(い) 高岡市右衛門の一族に大力無双なる者あり、昼野高岡家の墓所に在る大きな川石は、面河川から一人で担ぎ上げしものとか。
(ろ) 菅(加藤)長助の最後は哀れである。長助は戦陣で飛んで来る弓の矢を手でつかむほどの胆力と腕力の持ち主、大坂冬の陣に出陣、出陣の条件として、庄屋菅内蔵之丞が無事帰って来たら若干の土地を与えると約束したが、その約束を破棄すべく謀略をしかけたという。
   土佐、椿山の弓の名人なる者が一役買って出た。歳は不詳であるが、旧暦七月七日山畑へ蕎麦蒔に行っていた長助を不意打したのである。一矢、二矢長助は鍬で払って防戦したが一之進の放った管矢は長助の胸を刺しついに倒れた。当時地区の人々は罪・咎もなき長助の不憫さを思い、祠を建ててねんごろに葬った。今も長助大権現さまとして、毎年旧歴七月七日の命日には香花を供えお祭りをしている。
(は) 高岡市右衛門の愛刀は栃原高岡ヨシエ所蔵、その銘は
     常陸守源宗重  寛文十年八月
  長さ四七・七センチ、今から約三〇〇年前の作である。
(に) 高岡八左衛門の墓所は、本組の旧庄屋屋敷跡にある。今でも毎歳旧暦九月十五日、中秋の名月の宵、高岡一族は盛大に追悼のお祭りを行っている。
(ほ) 本組成窪の集落を東西に横切る石垣が通っている。農道工事のため一部破壊されたが、六人衆時代石垣の上部が中川家、下部が高岡家の土地であったという。
(へ) 本組庄屋屋敷から、南、面河川に向かって境界を入れ、東部を高岡家、西部を松岡家に分け、その線に木炭を敷いた。近年その木炭がところどころで掘り出される。
(と) 中川善之助が所蔵していた、父清政の宝物は、善之助屋敷の後山、ロノ林に一社を建立し、中川家の守護神として、毎年初穂を献上し、お祭りをした。それは日の丸の金の扇子とか。そのために、善之助はわが屋敷を東向きに造って東屋と称し、この土地も、日の丸にあやかって「昼野々」の地名にしたとか。今そこには社はないが、宝物を埋めた石積の場所が往時そのままに残っている。
(ち) 若山に番所屋敷があった。ちょうど菅内蔵之丞屋敷の下手、六人衆時代の関所ともいう。あるいは若山(草原)銅山との関係があったかも知れぬ。九耕第一一七番地(菅胤美住)
 大味川六人衆と密接なかかわりのあるものに、摂州高槻五万石の城主、松岡伯耆守吉則の嫡孫、松岡市兵衛吉滋がある。
 「中予大味川邑百性根本書」(本組松岡正人所蔵)の末尾には、次のように記されている。伝来の一巻を嘉永五年土佐国佐川の安並という者が書き写したものとある。
  右一巻逐一相違無之処依而元和元年右末孫之面々打寄厚吟味ヲ以相糺誌之可為者也
    元和元丙辰之歳
      正月良辰
  右一巻土陽左川之産筆工安並恒俊之主謹而可為識之者也
     追 加
  伝来之一巻并松岡市兵衛添書、年暦重紙面汚失之形ニ相成、両章共再改代可為者也                   安並恒俊誌
     嘉永五年壬
       子季春穀旦
 松岡家の先祖は、相州鎌倉松ヶ岡より出て、常陸国松ヶ岡に転住し、松岡伯耆守吉則の時に摂州高槻五万石の城主となったとある。
 慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の戦いで弟松岡縫殿吉興とともに滅亡、嫡男の松岡堅物は播州三ヶ月城主、一万石に取り立てられたが遂に流浪、堅物の長男松岡市兵衛吉滋は四国路に渡り、大除城落城後の大野家の落人を尋ね中川善之助に行き会い、大味川邑庄屋菅弥五衛門宅に逗留し、やがて庄屋所の帳書を勤めるようになった。庄屋菅弥五衛門病気のため死亡、高岡市右衛門・中川孫右衛門・菅(加藤)長助ら相寄り協議の結果、松岡市兵衛庄屋に取り立てられ、菅行野メドに居を構えた。
                (耕第一一一番地付近、松岡明畑)
  人品骨柄才智万民秀
  天晴之生質博学者不申及軽輩之者ニ無之故何分一村之庄屋取立可申旨右連衆之面々再打寄熟談……
 これは、松岡市兵衛の人物評である。大味川六人衆を中心として、市兵衛吉滋もかつての城主たりし才覚をじゅうぶんに発揮して、大味川開拓に貢献したといえる。
 承応三年秋のころ、市兵衛の弟市三郎・同彦三郎、摂州高槻より、大味川に移り住む。現在の松岡姓の者は、これらの人々の末裔である。
 ただ惜しむらくは、市兵衛の末路は不明である。菅弥五衛門の末孫所蔵の松岡市兵衛の位牌は、
  実相院円龍大居士           貞享年中、月日不詳
             (ただし市兵衛妻女の墓所は本組にある。)
 字笠方の梅ヶ市は、戦死者の遺骸の埋替地(うめかえち)から転じた地名であろうといわれている。天正十年(一五六二)のころ、土佐の長宗我部軍が久万山に侵入し、大除城による大野氏との激戦で生じた戦死者の死体がここに後日、埋め替えられたのを、文字の不吉を忌み、梅ヶ市としたと伝える。また妙には石田三成の墓と伝えるものがある。関ヶ原戦から逃れた三成の遺臣がこの地に住んだのであろうか